oreno_michiyuki

自叙伝を書き記したく始めました(2022年10月~)。自叙伝と知的生産による社会や歴史の弁証法的理解が目標です。コメントも是非お願いします。 ライフワークの「おうちご飯」もどしどし載せます!

自叙伝―幼少期 その1(No.4)

 幼少期の出来事は単純に”思い出深い”もので、いい年齢になってきて大変懐かしむことが多くなってきた。事実の羅列になりそうで特別な難しさも感じ、知的生産とは関係ないこともあるかもしれないが、自分勝手に書き記していこうと思う。

 まず思い出されるのはやはり両親が自分にしてきてくれたことで、今となっては、親だから当たり前だとか傲慢には思わず、純粋にその想いにありがたさを感じることができる。人の想いは受け継がれていくのだということを実感する。こういう感情は普遍的なものだと思う。そうでなければ苦難の人類史が現在まで続いてくることはなかったであろう。人を思いやる気持ち、というのか、こういう普遍性の強い感情を言葉にすると安っぽく聞こえてしまう―商業主義的広告がもたらした害悪のうちの一つ―ので大変憚られるのだが、政治(国家、法…)や資本主義(利益、成長パラノイア…)に吸収されることなく個々人がひしと感じて受け継いでいってほしい。周りを見渡せば、その時々の利益のためにそれが”利用される”場面が多々見受けられるのだが、原初的、本能的な部分を軽視していると、今何の気なしに享受している制度や枠組みの存立がいつしか危うくなり、仕舞に人類全体が大きなしっぺ返しを受けることになろう。

 

 さて、というわけで、まずは幼少期の家庭生活から筆を進めていくのがちょうどよさそうだ。

 平成5年大阪市、父親は塾の講師、母親は専業主婦という家庭に生まれ、バブル崩壊後の不況期にあっては生活環境自体は恵まれていたと思う。2個上の兄と、2個下の妹がいて、つまり当時は幼子が3人も同時にいたため、母親の子育てが大変な時期だった。しかもそれに輪をかけるように、父親は一昔前の「昭和(バブル期)人間」で、毎日飲んだくれ、いわゆる「イクメン」からはほど遠かったらしい。母親談なので事実は定かではない(ちなみに母親が何十年も前の話を出汁に父親を黙らせるのは、酒の席でのお決まりとなっている。反面教師にしよう)。とはいえ、私が幼稚園児くらいのときだったと思うが、酔っぱらいの父親が、皆が寝静まった夜中に帰ってきて、当時私が気に入っていた絵本を無意識のなか引き裂いてボロボロ、無残な姿にしてしまったことはしっかりと覚えている。そんな母親にはストレスも長年積み重なったことであろう、私が小学生くらいまでは(あるいは中学生になっても)、時々ヒステリックな狂態―教材を引き裂く、ご飯を捨てる、ものを投げつける、などなど―を見せられ、広くもない家なので逃れる場所もなく、心底嫌悪したものだ。酔っぱらいとヒステリ―は今でも嫌いである(好きな人間もあまりいないか)。

 兄との関係では、幼少期の2年間には圧倒的な差があり、たびたび繰り返された喧嘩には一切勝つことができず、なんというか、言葉にできない悔しさをいつも味あわされたものだ。負けて泣きつつもそれでも向かっていって再び返り討ちにあう―その競争心と敗北感はあの当時しか感じることのできないものだったと思う。また、子供は上の人間の仲間入りをしたがるもので、兄が友人と遊びに出かけるときにはよく嫌がられながらもついていったりもして、上の人間が作り出す別世界に憧れ、影響を受け、同年代に少し優越感のようなものもあったのかもしれない。

 「妹を持つ次男」の辛いところかもしれないが、妹に対しては、兄が私に対するのと同じように接するわけにはいかなかった。喧嘩などしようものなら問答無用で兄(私)が悪いことになる。ここでは妹が常に擁護され、自分が正しいはずなのにそれが通らないという、先の兄との関係で生まれるものとはまた違った屈辱を感じさせられた。妹にしてもその立場を早々に理解していて、諍いが生じれば親を味方につける術をかなり早い段階で身に着けていた。子供ながらにその小賢しさには舌を巻いたものである。

 兄弟関係では争いごとばかりのようだが、というより印象深いので記憶に残っているのだが、家庭の中で自分の立ち位置を相対的に見るという視点が自然と養われたことだろう。一人っ子だとそういう自然の教育がなされないのかどうか、そんなことはデータがないので全く不明で、人はとかく良くも悪くも自身の経験を特別視する傾向にあるものの、少なくとも自分にとっては、”親と自分”という単一の関係性にあまり思うところはなく、常に”親と自分と兄弟”が一体となったものとしての”家族”が自分という存在をありありと感じられる場―世代が上の人間の目を意識しつつ、上と下の人間がいる中での振舞い方、今何をするべきか、何をするべきではないか、を考える最良の場であったことに変わりはない。(兄や妹が幼少期、このあたりの関係性をどう感じていたのか聞いてみたいものだ。子供が3人もいれば皆何かしら満たされない思いを抱いていたことだろう)

 そういった相対的に物事を見る姿勢は、別に兄弟がいることがそれを習得する必要条件だとは思わないが、幼少期に家庭生活の中で基礎的に身に着けておくべきもののひとつではないだろうか。それを得られる場面はいくらでもある―好き嫌いが違う人間が隣にいる、外で遊ぶのが好きな人間もいれば本を読む方を好む人間がいる、自分より勉強できる人間もいるし、そうでない人間もいる。

 序文でも触れたが、相対的に見る姿勢というのは実は言葉以上に難しい。特にネット社会がいよいよ深まってきており、自分の持っている意見と同一の意見が、それを望んでいるわけではないにもかかわらず、事業者のアルゴリズムによって常に、場合によっては過激に提示される。あるいは、「意見」とまでは言えない段階―うっすらとした感情、なんとなくの感覚―にあったにもかかわらず、それを的確に表現してくれた他者の「意見」が、気づかないうちに恰も自分の「意見」であるかのように思え、そして最終的には、その過程をあっさりと忘却し、自分の確固たる「意見」として固辞するようになる。そして、似たような意見がまたネット上で提示され、自分のそれをさらに確固たるものにし…という繰り返しである。よほどの天才でない限り、いやよほどの天才であっても、他者の意見・見解に影響を受けないということはなく、自分固有のものに思っていたとしても、それは他者との関係性の中で受け取ったものに過ぎない。もし相対的な視線を自家薬籠中にしていれば、自分の意見に固辞することはなかろう、いや仮にそういう状態に陥ったとしても―一旦そういう状態に陥ると、その時点でかなり厄介なのだが―別の意見を受け入れる準備ができていて、その固辞してしまっている自分を客観視し反省することができるのだと思う。

 別に家庭でなくとも、たとえば小学校や習い事の中でもそれらは身に着けられるのではないかと考えられるかもしれない。ただ、小学校くらいにあがると、すでに自分の家庭が生活の土台としてしっかり認識されていて、ほかの家庭の生活がどこか奇異に見えるような(そこまで言わずともなんとなく違和感があるような)経験はなかったであろうか。すでに物事の絶対化をしたがる傾向が始まっているのである。だから、自分の生活の土台が自分の家庭であると認識する前に、相対化の姿勢を取り込んでおくことが大事なのである。時間が経過すればするほど、そして身に着けるべきものが基礎的、普遍的であればあるほど、習得するのは難しくなってくるのである。

 排外主義や原理主義といった、絶対化がその中核である思想だけでなく、そもそも「xx主義」と名の付くものはすべて絶対化を免れていない。そして人は対立軸で物事をとらえることを好むし、そのほうが仲間の共感を得ると同時に敵を特定でき、もっと言うと、そういった「xx主義」と命名することによって、その思想自体を生み出すことができる。非常に便利なのだ(マルクスの思想を是とする者が「マルクス主義者」なのではない。「マルクス主義」を是とする者が「マルクス主義者」なのだ)。便利ゆえに危険で、原理対原理の危険な対立を生むことになる。具体例は、20世紀に入ってから現在に至るまでのほんの短い期間をみても枚挙にいとまがない。

 話が壮大になってしまっているが、要するに「絶対化」は、人類が何百年、何千年にもわたって繰り返すほど普遍的な事象であり、いくら逃れようとしても逃れられない、そんな”根源的な”難しさをはらんでいる問題である。だからこそ、人が最初に生まれ育つその”根源的な”場に目を向けてみるのがよいのではないかということだ。卑近さと壮大さは相容れないというものではなかろう。むしろ最も密接しているということすらありうる。

 

 幼少期の家庭生活を土台に考えてみた。追加で考えるべきことはまだまだありそうだが、機会があれば記していこう。

自叙伝―序文 その3(No.3)

 まず自分の来歴を簡単にふりかえってみたい。

 平成5年、大阪市、父親は塾の講師、母親は専業主婦という家庭で生まれた。平成5年というと「失われた10年(今時点では30年)」と言われた不況の真っただ中であるが、当然そんな雰囲気を特に覚えているわけではない。実際のところはどうかはわからないが両親の精いっぱいの努力があったから何も不満を感じなかった(その記憶がない)という部分もあったのであろう。

 2個上に兄、2個下に妹がいたので、遊び相手、喧嘩相手に不足することはなく、同時に、上下に守られて、と言って正しいのか、どちらかと言えば自由奔放に育てられてきた。特に屈折した思いも抱くことなく生活してこられたことは誠に幸運というべきであろう。家庭生活とはおそらく関わりなく、自由さはともすると自分勝手さにも通じていて、やりたくないことはどうしてもやりたくない、という個人主義的な面も強く、今になってもそういった部分を社会生活の所々で感じられ(他人事ではない)、苦笑を禁じ得ないものである。

 幼いころから、母親が「教育ママ」というほどのものでもないのだが、比較的懇切丁寧に勉強についてくれていたこともあって、また、父親が塾講師という職業に就いているからでもあろうが、同年代の中でも成績は多少はよく、小学4,5年生からは中学受験を視野に入れて勉強を本格的に開始した。今も変わらないのかもしれないが、中学受験は「親と子の共同作業」という様相が強く、いろいろと大変な面もあったと思うのだが、これも両親の努力に支えられてそれなりに良い結果に落ち着けることができた。また、2年生からは少年野球も始めていた。小さいころから身体があまり強くなかったそうで、母親が進めたことで、当初は嫌々であったのだが結局6年生まで続けることになった。中学受験と少年野球という二つのライフワークを持っての生活には、細かい点はともかく、充実した毎日を与えてもらっていたことであろう。

 そうして進学したのは大阪府高槻市にある高槻中学校(中高一貫なので高槻高校にもその後進学している)であり、校名からは以外かもしれないが私立なのである。ちなみに高槻というとキリシタン大名で名高い高山右近高槻城があった場所で、大阪府内とはいえ都会ではなく、山や自然も比較的多い郊外といったところである。

 中学生は人生形成において最も重大な時期のうちの一つだと思うが、その時期を男子校で過ごしたことと、野球部に所属しつつも、進学校なので当然なのだが課題も多くこなし(あるいは大いにサボりながら)、総体的に見ておおらかな日常を享受できたことは、幼少期の生活で得られた自身の性格から大きな転換を強いられることもない面ではよかったものと思う。もっとも、自分に大した能力がないにもかかわらず、新自由主義の風潮に乗じて競争中心の生活に足を踏み入れたことは後々自分を苦しめることになるのだが。

 入学当初から大学受験も視野に入れて勉強をするのが進学校の在り方のようで、そのことについては「いつか来るもの」として早い段階から受け入れていたこともあり、中学受験同様できる限りのことはしてきたつもりだが、受け入れていただけで何も実になっていなかったのであろう、現役時代は合格した大学はゼロで、あえなく浪人生活に突入することとなった。

 この浪人生活も曲者というか、大げさに言うと背水の陣の精神生活を強いられることで、―高校3年生まで続けることのできた野球で培われたと言ってはいかにもありがちなのだが―忍耐強さこそ発揮できたものの、これも能力のない人間が無理をしたからか、ネガティブな感情も大いに抱え込んでのものとなった。そんな苦労もしたからか、そして周囲に大いに迷惑をかけつつ、無事第一志望の京都大学法学部に入学することができた。

 「花の大学生」とか「青春」とか、このあたりの年代が形容される様々な言葉はだいたい嫌いなのだが、まったく平穏無事な大学4年間を過ごした。人の道から足を踏み外すのも問題だが、無事なる生活というのもどうなのであろうか。後述を待つことにしよう。

 卒業後は神戸の企業で法務パーソンとして仕事をし、少し前に、これまでの自分からはにわかに信じがたいのだが、幸いなことに結婚をして今に至っている。(結婚して幸せになるのではなく、結婚できたことが幸いなことなのである。結婚に関することをいつも未来形で語るのはあらゆる男女の悪い癖である。過去からの幸福や幸運の連続であることを認識すれば、何をか悲嘆にくれることがあらんや。新婚の盲目と退けたくばそれでもよいが)

 生まれてからずっと関西での生活だが、そこまで関西風の人間ではないと自分では思っている。お好み焼きもついこの間まで嫌いであったし、粉モンと米を一緒に食べることなどできない。食生活も日常の重要な一つの軸なので、真剣に考えてみるのも面白いかもしれない。

 さて、ざっと来歴を振り返ってみた。こうしてまとめてみると、あの時は「よかった」「わるかった」など簡単な言葉で一括りできてしまうし、そうしてしまいがちだが、そういう飲み屋トークにはすっかり辟易している。今段階では評価・解釈はこのあたりでとどめておこう。

 

自叙伝―序文 その2(No.2)

 自叙伝を書くことに決めたものの、そもそも自叙伝というものをほとんど読んだこともなく、かろうじて本棚に『フランクリン自伝』と『福翁自伝』があるくらいのものなので、いささか悩むのであるが、あくまで我流で好奇心の赴くままに雑文を連ねていきたいと思う。

 自分の人生を振り返ってみたいと長らく思いつつもなかなか手を付けられなかった理由の一つに、「物語る」ことによって喪失してしまうものを恐れていたことがある。「物語る」ということはその時点の自身によって出来事なりを解釈するということにほかならず、かつての自分の感覚・感性が受け取ったものとは確実に異なるものであろうし、その相違にもかかわらず、解釈が先行することによって、当時受け取ったナマの感覚が失われてしまうことにならないだろうか。だとすれば、時々思い出を想起することで事足れりとしておくほうが、きれいな思い出を保存しておくという意味でよいのではなかろうか。

 そんな逡巡がありつつも、昔の思い出に浸るだけの感傷主義では是とできないあたりが、一部分にやたらとこだわる性格がなさしめることであろうし、先に述べた通り、社会での出来事や歴史と自分の人生を結び付けてみたい―それがどういう結果になろうと―という、いわば知的好奇心が勝ったということである。なので、かつてのナマの感覚が失われてしまうことは受け入れる覚悟である。もっとも、現時点で過去の思い出を想起した時点で、それはその当時のナマの感覚ではもはやなく、どうしても現時点の自分の解釈でしかないのであるが―そう考えると出来事の一回性という性質は恐ろしくもあり、また、アウラとでも言うのか、一回性ゆえの美しさもある。昔のほうがよかったというありがちな懐古主義はあくまで現時点での解釈に基づくもの、というよりそれ自体でしかなく、事実がどうだったかは問題になっていないはずだ。恐れずに過去の自分を今の自分が想起し解釈しようと思うわけである。

 前置きが長くなるが、私は30代を目前に控えており、そのことも自叙伝を記したいと思ったひとつのきっかけであるが、そもそも人生を10年単位で区切ることには何の必然性もない。であるにもかかわらず、孔子の時代から絶えずそれが語られてきたということは、それが人類における捨てがたい慣習の一つになっているということであろう。(実際そのことに影響を受けているからこそ今これを書いている)

 必然性はないが、人類にとって限りなく普遍的であるのだから、そこには単なる偶然ではない経験則が隠れているはずである。あえてそれを一つの土台として考察を進めていくのも有益な手だと思う。とはいえ、ここにも落とし穴があって、「自分は30代だから(後には基本的にネガティブな言説が続く)」といったような、周囲の言説―風潮、空気―にただ流されるだけの思考―というよりも惰性―に陥ってしまう傾向を見逃すわけにはいかない。ともすると慰め慰められの馴れ合いに堕しがちな(10年単位の)年齢・年代論は、現時点での自分の在り方やありたい姿、これからの自分を、本来それが望ましいものではなかったはずなのに、一つの型に規定してしまうことになる。「もう40代だから体が痩せにくくなったなあ」という思考は、その科学的事実はともかくとして、実際に痩せようという意欲を自分自身から無意識に削いでいることになるのではないか。それを他人と共有して安心する姿など目も当てられない。飲酒の習慣を改められないのは、今まさに飲酒をしているからだと『幸福論』(アラン)にある。考察の土台としつつも、不用意な言説で怠惰な「思考もどき」をすることのないよう注意したいものである。

 さて、具体的な自叙伝の進め方であるが、生まれてから今現在までつぶさに振り返ることなど何ら意義を感じないし、そもそも覚えてもいない事実を何かしらの記録から引っ張り出してきても、単なる楽しかった―とは限らないが―思い出の羅列になってしまう。そうならないためにも、時代ごとにいくつかトピックを挙げ、それについて論じるという形にしてみたいと思う。もっとも、うまくいかなければ何らかの形で軌道修正すればよいだけであり、それだけの可塑性は持たせておきたい。

 上のアランの話ではないが、軌道修正できるということは人間にとって切実ではなかろうか。ネット社会に漬かりきることの大きな弊害として、自分の好きな空間に「だけ」没入し、他の空間を想像することすらできなくなってしまうことがある。それが結局は激烈な言動や挙句の果てに暴力的行動に至ってしまう。他人の意見に耳を貸すというのは言葉以上に難しく、場合によってはこれまでの自分を否定することにもなりかねない。それであっても、あくまで客観視と比較衡量をつづける忍耐強さを持つことが、ネット社会になってからの時代に限らず、ひとつの普遍的な教養ではないだろうか。

 というわけで、自叙伝をネット上に公開するからには何らかのレスポンスややり取りが発生することが望ましく、もし運よく他者の視線に実際に―誰も閲覧しないのであれば机上でノートブックに記すのと何ら変わりない―さらされたのであれば、その忍耐強さをもって真摯に自身と向き合いたい所存である。

自叙伝―序文 その1(No.1)

コロナ禍以降、自分がどう生きるかということに加えて、より普遍的なことに関心が強くなってきた。言語の役割・効果、多様性の意味、メディアの価値、原理主義多文化主義、差別、民主主義の限界、国民主権などなど。

関心が強くなる一方、憤懣やるかたないことが巷に溢れかえっており、さすがにそろそろ頭の整理をしていかないといけないと一念発起し、ここに雑文を記していくこととした。また、ただ自分の理解を整然とさせたかっただけではなく、自身の「知的生産」を何かしらの形で実現させたかった思いもある。結果に関わらず自分の中で消化して腑に落ちることでこれまでは十分に満たされていたのであるが、「知的生産」とはそもそも外部への公表をその意味として含むのではないかと考えたことも、愚見を披露していく契機となった。

もっとも、ただ社会で起こっていることに脊髄反射しているだけでは、それほど自分にとって魅力的でなく、うまく継続させていける自信がない。単なる愚痴こぼしのような、まさしく愚かな非生産的井戸端会議をしてしまうことは全く望んでいない。

そこで、より具体的かつ真摯に思考するために、なるべくこれまでの自分の生活と関連づけて考えていくことができればよいと思っている。来年30歳を迎えることもあり、これまでの人生を一度丁寧に振り返ってみたい。自分のちょっとした過去の行動に対してもまだまだ心的に決着をつけられていないことが多いのである。つまり、いわば自叙伝的に進めてみたいのである。

知的生産と自叙伝を混合させて、まだ見ぬ相乗効果を得られればこれほど有益なことはなく、それが弁証法的に30代以降の生活に具体的に寄与すればよかろうし、むしろそれを自分で狙う姿勢も持つべきであろう。

欲しいのは毒にも薬にもならない「情報」ではなく、道標としての普遍的「知識」だ。