oreno_michiyuki

自叙伝を書き記したく始めました(2022年10月~)。自叙伝と知的生産による社会や歴史の弁証法的理解が目標です。コメントも是非お願いします。 ライフワークの「おうちご飯」もどしどし載せます!

自叙伝-幼少期 その5(No.8)

 今回の話は何も幼少期に限るものではないが―全編通して、段階に分けて記述することはどちらかというと便宜上のもので、それほど大きな意味があるわけではない―、「言葉」による伝達(教説、説教、教育、意思疎通など)にいかほどの役割があるのかを考えてみたい。

 アニメ『ドラえもん』では、(今はどうか知らないが)かつて自分が見ていた頃、主人公ののび太がテストで悪い点をとったことに母親が怒り、滔々と説教をするというシーンがよく見られる。のび太は毎回のように長時間説教されるのだが、そのたびに説教されたことに疲弊するのみで(ドラえもんに慰められるのもおなじみ)、深く反省することや、母親の言葉を戒めにして自分を見直すということはまずしない。ここでは説教の(子どもに対する教育的な)効果は全く見られないのである。一方で、記憶が曖昧で恐縮なのだが、のび太もそのような口うるさい母親(または父親)に対して尊敬の念を抱くようなシーンが稀に描かれていたように思う。そのようなシーンでは、母親がのび太に対して教育的効果を意識して(あるいは意識せずとも)言葉による説教を滔々と行うようなことはなく、「格好いい大人の姿」を見せる。ただ、それだけである。のび太は母親の言葉に心を動かされるのではなく、自分よりも偉大な存在であることを無言で示す姿に感動し、日常ではあまり抱くことのない敬意を母親に対して示す。

 自分の子どもの頃を思い起こしてみてもそうかもしれない。両親だけでなく、教師や野球のコーチなどの大人で、その言葉だけに感動することはなかったし―むしろ感動的な言葉など何も記憶にない―、(言葉も含めて)全体としての姿に何かしらの凄みを感じたからこそ敬意を抱いただと思う。

 言葉による伝達というのはよほど人には響かないということではないか。ちなみに「有用性を持つ知識」とは、①一般性があり、②他の知識と関係性を有した孤立したものでない、③場面応答性(必要とされる場面でこそ利用可能である状態)のあるものを言うようである(「私たちはどう学んでいるか」鈴木宏昭)。つまり、「その人にとって」「利用可能」でない知識はそもそも「知識」ではないということである。人にとって何が問題か、何が重要かは、その人の置かれている環境によるところが非常に大きく、ただ単にそこにあるモノとしての情報など「知識」とは言えないということである。だから、他人の言葉が心に響くことがあるとすれば、その人の人生にとってその言葉が何か重大な意味を持つ(喫緊の課題の解決に有用、心にしこりとして残っていた出来事の理解を促す、など)場合ということになる。ピンポイントにその人に響く言葉を放つことなどそうそうできることではない。だから、他人の言葉はたいてい心に響かないし、残らないのである。

 もう少し踏み込むと、人は「他人の言葉」、というよりはむしろ「他人の言葉が持つロジック」に動かされるのではない。言葉が人を動かす主な場面としては、商業広告やイデオロギー的表現が思い起こされるが、そのいずれもロジックで人を動かしているのではない。それらの作成者はロジックで人が動かされるものではないことをよく理解しており、「意識的にロジックを利用しない」という手法をとる。たとえば、商業広告に使われるコピーライティングは積極的に短文で瞬間的に人の記憶に残るよう工夫されている。「八紘一宇」という言葉は、その意味があえて国民に明確に示されることなく、なんとなくの雰囲気を持たせつつマスメディアがイデオロギーとして浸透させていった。

 これらの例はもちろん悪い方向に至ることがしばしばある。「八紘一宇」や「一億玉砕」という言葉が悲劇をもたらしたことは言うまでもないし、企業のコピーライティングに右往左往させられ、”なりたい自分”を企業によって作り出され、それを追従するだけの人形のような受動的消費者が生み出される。つまり、ロジックを否定した短文による表現は人を「動かし」はするものの、事実はあくまで「動かされている」ということに過ぎず、能動的に自身の人生をよいように構築していこうという主体的な意識を醸成するようなものではない。No.7でも述べたように、未来を思って行動することには根源的な難しさがある。それは、未来完了の視点を取り入れなければならないから、という前回の話に加えて、山本七平の「空気の支配」に従うと、人は未来に触れることができず、かつ、未来は言葉でしか構成できない、そして、人は言葉によっては説得されず、そこにあるモノとして感情移入することで動かされる、という事情があるのだと思う。

 では、人は他人の何に心を動かされるのであろうか。答えは簡単で、他人の熱意や熱量、ひたむきな姿勢、何とも言えない凄味、などである(書いてしまうと何とも拍子抜けではなかろうか?だから言葉は怖いのだが)。ロジックで人を説こうとするのでもなく、未来のことを考えるよう説教・説得するのでもなく、すさまじいエネルギッシュさを持った人間の迫力にこそ心を揺さぶられるのだ。そのような人にはもはや合理性など何も必要ではない。むしろ不合理的姿勢のほうがよい場合すらあろう。「合理性を超えた不合理性」(「日本の難点」宮台真司)は人の心を動かすだけでなく、その人の現実での主体的な行動をも引き起こす(もちろんこれも悪用される可能性はあるのだが)。たとえば、新選組土方歳三などは喧嘩っぱやい危うい人間で、言葉で人に語りかけるようなタイプではなかったようだが、多くの人間が彼に惹かれて入隊したし(たしか。記憶があいまい)、エレファントカシマシ宮本浩次は、ライブ中ほとんどMCをしないし、しゃべっても支離滅裂なことが多い(歌詞もよく忘れる)のだが、そのパフォーマンスに人は感動し、現実にも生きる気力を沸き立たせてくれるすさまじい人間である(私も影響されている一人。歌詞は楽曲としては重要な要素の一つかもしれないが、ライブパフォーマンスにおいては、極端な話、どうでもいい)。ウェーバーの「カリスマ的支配」もここに該当するであろう。

 昨今、Twitterを中心としたSNSでくだらないギロンが横行しているようだが、そんなものには何も社会を動かす力はない。ただ、自分や相手の内面に暗い部分を積み重ねていくだけであろう。言葉やロジックで人を説き伏せることが正しいことのように思われがちだが、それは「内容が正しい(かもしれない)」というだけであり、別にそれが必ずしも「社会的に正しい行動」ということにはならない。利己性を全面に出した言葉や行動は対立こそ生めど、社会を良い方向に変えていけるような力はない。

 利他性を感じさせる、不合理ですらある力強い姿―こういった大人が増えていけば、社会は少しでもいい方向に動く(少なくとも、動こうとする)のではないだろうか。「ドーンといけ」(宮本)というコトバには「言葉」以上のものがあるのである。