oreno_michiyuki

自叙伝を書き記したく始めました(2022年10月~)。自叙伝と知的生産による社会や歴史の弁証法的理解が目標です。コメントも是非お願いします。 ライフワークの「おうちご飯」もどしどし載せます!

雑記(その1)

 暗いニュースが世の中に溢れかえっているが、どうも冷めた目でしか見れない。円安、物価高騰、増税、戦争、周辺国との敵対など挙げればきりがないが、よくも毎日毎日同じような暗いニュースを報じ続けられるものだと少し関心すらしてしまう。あたかも、嘆くために嘆いているかのようである。もちろん、ジャーナリズムはその対象の新規性自体に本質があるので、やっていること自体に間違いはないし、また、ニュースは見る者の関心を惹かなくてはならないので、そのためには危機感を抱かせることも必要な条件であり、ニュースの対象が暗いものになる傾向があることも間違いではない。

 主権者であることを信じ切っている国民がそれを望んでいることも原因であろうが、主権者である割には彼らは情報を得ることだけ(情報に一喜一憂することも含む)に喜々とし、行動に移すことはほとんどない。投票によって政権交代を起こすこともなければ、何らかの代議員に立候補することもなく、デモンストレーションをすることもない(稀にそういうことが起こっても、表面的に左掛かった幼稚な児戯に過ぎない)。

 さらにニュースや報道番組のつまらなさは(それを見ている者も含めて)、その暗いニュースに対して「なぜこうなのか」「変えなければならない」などとてきとうな意見を述べつつ―上述のとおり絶対に誰も行動に移さない。「意志」とは「行動」されて初めて発生するので、決して「行動」に移さない人たちの意見には「意志」がないのであり、論理的に見て「てきとうな意見」を吐いている―、世の中にはまだまだ楽観的に見るべき点があることを示すように、いたずらに明るいニュースを報じるのである(たとえば、パンダの映像、スポーツの勝敗、新技術の開発など)。人々は暗いニュースで沈んだ心をそれらの明るいニュースで相殺されたかのように感じ、つかの間その憂いから逃れることができるらしい。

 日常の行動を見ても、行楽施設は毎週混雑するわけだが、大小さまざまな暗いニュースに沈みながらも、(ほとんどの場合無意識に)心の平衡を保つべく、そこに赴いて憂さ晴らしをし、自分の人生や世の中もまだまだ捨てたもんじゃないなどとうそぶく。しかし、これは企業の広告に従っていたずらに消費活動をしているだけ(そうじゃない場合があることも理解している)なので真に晴れた心は得られない。そのため、同様のことが終わりなく繰り返される。

 さて、これだけいろんなことを否定して自分でも楽しいわけはないのだが、世の中に嘆息することが目的ではなく、とどのつまり「積極的な生」を手に入れたいのであり、そのための過程であることを念のために確認しておく。

 では結局われわれはどう行動すればよいのだろうか。もちろん、答えは簡単には出せず日々模索中なわけであるが、少なくともいたずらに自分自身の生を未来に拡張してはならない。懐古的に過去に執着することも当然避けなければならない。過去は現在に積極的に活かされるためにこそ目を向けられるべきである。

 狩猟採集生活から農耕社会に移行した頃から、「未来」の捉え方が変わり、それは現代にいたるまで継続している。具体的には、統一された時計による社会の支配とスケジューリングされた生活、将来のための貯蓄や投資、あらゆる企業活動など。なので現代に生きる限り「未来への生の拡張」は基本的には避けることができない。これが結局「現在の生」に虚無感を与えてしまうことになり、われわれに「真の行動」をとることを躊躇させる(あるいは、そんなことができるという思考すら排除してしまう)。もちろん山奥で遁世でもすれば逃れられるだろうし、その叶えられない想いを一部だけでもかなえようとして田舎へ移住する者が少なからず存在するようだ。

 でも逃れたいわけではない。現代社会に生きながらも、「真の行動」をとる人間でありたいのである。以上、雑言でした。

 (「真の行動」といって、政治家の暗殺であったり、無差別テロリズムであったり、はたまた自殺であったりは絶対に拒絶する)