oreno_michiyuki

自叙伝を書き記したく始めました(2022年10月~)。自叙伝と知的生産による社会や歴史の弁証法的理解が目標です。コメントも是非お願いします。 ライフワークの「おうちご飯」もどしどし載せます!

自叙伝-幼少期 その4(No.7)  

「他人」の経験から学ぶ難しさを「未来に学ぶ」ことに転換することについて検討してみる。なお、本稿は大澤真幸の『夢よりも深い覚醒へ』に則る部分が大きい。

 未来という時点はその不確実性が本質にあり、ゆえに未来の自分も未来の他者も論理的にはどちらも「他者」であると言うことができる。ここまでは「過去の自分」=他者という考え方と同じであるが、未来の場合は簡単にそこに感情移入することができない。よって「PすればQするだろう」(Qは将来の自分にとって不幸な事態を指す)という論理の推測をしたときに、Qはあくまで自分とは距離のある事象としか感じることができず、そこから今の自分の行動を見直すような思考に至ることは難しい。

 ロールズの貯蓄理論は、社会はその時だけ存在するものではなく、長期間にわたって人々が協働することで実現し、富の分配は現在世代のものだけではなく、未来世代をも含めたものであることが必要だとする。フレチェットの恩の概念は、現在世代は過去世代に生かされてきたのであり、すなわち過去に対して負債を持っている、だから、未来世代に対してわれわれはそれを返済しなければならないとする。いずれの考え方も、現在世代は未来世代のことを考慮し、未来世代のためによりよいものを残さなければならないことを訴えかける。それを個人に置き換えると、人は今のことだけを考えるのではなく、将来の自分のことを考えて行動しなければならない、ということになる。それ自体はもっともな言説であり、幼少のころから耳にタコができるほど聞かされてきたことだと思う。しかし、実際のところはどうか。環境への対応など、少しずつ改善がなされている部分はもちろんあるものの、将来に富を分配するとか、過去からの負債を返済するという意識で行われているものではなく、あくまで現時点の「成長」を持続化させることが主とされているようであり、手放しに楽観視できるものではなさそうなところがある。個人の目線でも、たとえば明日眠くなったら困るけど、今ゲームが面白いから夜更かしする、というほんの少し先の「未来の自分」にとってさえ損になる行動をたびたびしてしまう。(行動経済学で、利益が目の前に迫れば迫るほどそれが大きく見える、といったあたりが詳細に説明がされていたはずだが今は置いておく)

 単純に「PすればQするだろう」という論理だけでは、人はなかなか今の自分を変えること、つまりQを避けるために行動PをRに変更させることはできない。

 しかし、カントが、行為がその成果の受取人が未来の他者であるとわかっていても営々と従事される場合があると述べているとおり、人間にはそういう真逆の性向があることもたしかではないだろうか。たとえば、清掃のボランティア活動を思い浮かべてみると、今の誰かを手助けするだけでなく、未来の誰かが気持ちよく生活できるように思って―もちろんそれだけが目的ではないにしても―取り組まれている節は、否定できないだろう。つまり、考え方次第では、人は「未来の自分」を思って現在の自分を変えること、「PすればQするだろう」という論理から行動Rを起こすことが理屈の上ではできるのではないだろうか。

 ここで重要になってくるのは、ただ「PすればQするだろう」という未来形の思考では効力が弱いということである。P以外の選択肢=Rという選択肢が、まさに今の自分に与えられていると強く感じられなければならない。PをとるのかRをとるのかという選択の可能性を今感じることができれば、それはつまり「未来との連帯」がなされているということであり、選択次第ではQを回避することができることになる。要諦は、今の自分の行動が将来の自分と密接に関係していることを痛烈に感じることができるかどうかである。そのためには「Pすれば」という未来形の思考ではダメで、「Qしてしまっているだろう」という未来完了形の思考が要求されるのだと思う。未来完了とは現在の自分と未来の自分が連帯していることを表す概念であり、このとき、今の自分の行動が未来の自分に影響することがその思考において表現されている。「Qしてしまっているだろう」と考えたとき、Q時点の自分=「未来の自分」から再帰的に今の自分を見ることとなり、その結果、Rを選択肢として加えることができるようになる。

 予定説によると、将来自分が救済されるかどうかはすでに定まっているという恐ろしい事実を信者は与えられている。普通に考えて、すでに自分の救済が定まっているのであれば、今の自分が何をしようと同じであり、自暴自棄に陥りそうなものである。しかし、実際は彼らプロテスタントはその禁欲主義によって資本の蓄積という現在にまで至る資本主義の精神を具現化したことになっている。

 彼らは、未来は決定しているから今の自分が何をしても一緒だとは考えなかった。決定している未来によって、今の自分に、善行を為すか為さないかの選択肢が与えられているというように逆の思考=再帰的思考をしたのである。今善行を為す自分はきっと天国に行っているはずだとしてさらに善行を重ねるようになるし、未来は決定しているから善行は為さないなどと考える自分が救済されるはずがないと考え、善行を為すのである。未来完了の視点を取り入れることで現在の自分の行動を変えることができるよい例であろう。(彼らの禁欲主義の是非は問わない)

 ちなみに、これはあくまで自分自身の行動の話であり、他人の行動を変えることの難しさは個人のそれの比ではない。

 映画『君の名は』で主人公三葉(入れ替わった瀧)は破滅の未来を知ったために、ただ流星を眺めるのではなく、町民を避難させるべく行動を起こすことになる。漫画『進撃の巨人』の主人公エレンも同様に破滅の未来を知り、彼の場合は覚悟をもって、(あえて未来を変更させるのではなく)そのままの未来(地鳴らし)に至らしめるために行動を起こすことになる。いずれにしても未来を知ったことから現在の自分に他の選択肢が与えられていると感じて、自分の意志で行動を選択することができるようになったわけである。(未来完了の極致のような状況が表現されている)しかし、エレンの場合とは異なり三葉の場合は、自身の行動だけでは町民を避難させることができず、町長である父親を説得しなければならない(しかも一度説得に失敗している)。結局物語としては、その後父親を説得して町民を避難させることには成功したのだが、父親を説得できたシーンは描かれなかった。これは、未来完了の思考が他者にまで影響を及ぼすことがいかに難しいかを示しているのではなかろうか。つまり「描かなった」というよりは、「描けなかった」のではないか。「未来との連帯」とは結局個々人が個々人の未来と連帯するしかなく、他者の未来を共有してそれと連帯することはできないのかもしれない。ここをどうクリアしていけばよいのかについては引き続き考えていきたいし、ここがクリアできない限り、人類は永遠に将来世代のために現在世代の行動を真に変容させることはできないということになる。