雑記(その2)
先日嘆息ばかりする世の中、ということを少し書いたが、「絶対的に良いもの」があるはずだという思考でいくと、嘆息は必然的なものとなってしまう。
特に政治の分野は常にありうべき可能性からの選択から成り立っているにもかかわらず、最初から目標が固定されていると、それ以外の道程はすべて否定されるべきものとなる。つまり思考も視野もすべて固定されてしまうことになる。こうなると、ほとんどすべての選択は、固定された目標から逸脱されたものとなってしまい、結果的に、(ほとんど)すべての選択が嘆息するべきものとなる。
これが極端になると、現実をラディカルに否定するテロリズムなどに至ってしまうわけである。一種の原理主義ということである。
現実が「可能性の集合」であることは忘れてはいけない。
卑近な例でいうと、食器でも家電でもなんでもよいが、このメーカーしか買わない、この種類しか買わないという「こだわり」があるかもしれない。別に日常生活で向上心を常に持ち続けるべきとかそういう話ではなく、「絶対的に良いもの」があると思い込んで行動していると、たとえばその製品が急に使えなくなったら、メーカーが急に製造を中止したら、などの不測の事態に直面して右往左往してしまう危険性がある。おそらく使ってるうちにその製品に慣れてきて使いやすくなる、自分の技術もその製品に合わせて成長する、そうするとその製品の良い点がますますよく見えてきて、使いやすい理由をさまざまに後付けする、その製品に執着する、というような過程が多いのではなかろうか。理由などたいてい後付けなので、つねに再帰的に物事をみることで、「絶対的に良いもの」など存在しないことがわかるはずである。