oreno_michiyuki

自叙伝を書き記したく始めました(2022年10月~)。自叙伝と知的生産による社会や歴史の弁証法的理解が目標です。コメントも是非お願いします。 ライフワークの「おうちご飯」もどしどし載せます!

雑記(その3)

 「ブーム」や「流行」があらゆるメディアで作り出されて、そこに消費者が押し寄せる。消費者はわかりにやすいものでないとダメなので、「女性人気」「女性一人でも入りやすい」などといったかたちであらかじめ価値を規定し、享受するべき感性を付与されているのが常套のパターンでもある。タピオカ、いちご、町中華ブームとかいろいろなものがブームになって(されて)は廃れて、数年後にはまた、その良さを再発見したなどといってブームとなる。(自分たちでブームを作って、廃れさせて、そのうえ再発見した!などというのだから、その図太い精神にはほとほと呆れる)

 「ブーム」なんて所詮儲けたい人が作り出すものにすぎないのだが、何も悪いことだけではないのではないかと最近思うようになった。たとえば、使い道がなくて取り壊すしかない長屋を再利用して喫茶店にすることで資源の再活用を行う。昭和レトロが流行りだと喧伝することで、新しく物を生産することなく価値がなくなったものに再度価値を付加する、といった方策もある。

 「最小限の生産と価値の再付加」が限界を迎えていると言われて久しい資本主義の次のステップの一つの態度ではなかろうか。

 こういった流行の創出がごく一部の人間の儲けのためになされるのであればなんとも醜悪だし、そういう側面はどこにでも付きまとうのだが、いいかたちで再分配につなげられるのであれば、「ブーム」や「流行」という言葉の軽薄さだけで拒絶することは可能性を狭めてしまうなと最近反省している。

雑記(その2)

 先日嘆息ばかりする世の中、ということを少し書いたが、「絶対的に良いもの」があるはずだという思考でいくと、嘆息は必然的なものとなってしまう。

 特に政治の分野は常にありうべき可能性からの選択から成り立っているにもかかわらず、最初から目標が固定されていると、それ以外の道程はすべて否定されるべきものとなる。つまり思考も視野もすべて固定されてしまうことになる。こうなると、ほとんどすべての選択は、固定された目標から逸脱されたものとなってしまい、結果的に、(ほとんど)すべての選択が嘆息するべきものとなる。

 これが極端になると、現実をラディカルに否定するテロリズムなどに至ってしまうわけである。一種の原理主義ということである。

 現実が「可能性の集合」であることは忘れてはいけない。

 卑近な例でいうと、食器でも家電でもなんでもよいが、このメーカーしか買わない、この種類しか買わないという「こだわり」があるかもしれない。別に日常生活で向上心を常に持ち続けるべきとかそういう話ではなく、「絶対的に良いもの」があると思い込んで行動していると、たとえばその製品が急に使えなくなったら、メーカーが急に製造を中止したら、などの不測の事態に直面して右往左往してしまう危険性がある。おそらく使ってるうちにその製品に慣れてきて使いやすくなる、自分の技術もその製品に合わせて成長する、そうするとその製品の良い点がますますよく見えてきて、使いやすい理由をさまざまに後付けする、その製品に執着する、というような過程が多いのではなかろうか。理由などたいてい後付けなので、つねに再帰的に物事をみることで、「絶対的に良いもの」など存在しないことがわかるはずである。

雑記(その1)

 暗いニュースが世の中に溢れかえっているが、どうも冷めた目でしか見れない。円安、物価高騰、増税、戦争、周辺国との敵対など挙げればきりがないが、よくも毎日毎日同じような暗いニュースを報じ続けられるものだと少し関心すらしてしまう。あたかも、嘆くために嘆いているかのようである。もちろん、ジャーナリズムはその対象の新規性自体に本質があるので、やっていること自体に間違いはないし、また、ニュースは見る者の関心を惹かなくてはならないので、そのためには危機感を抱かせることも必要な条件であり、ニュースの対象が暗いものになる傾向があることも間違いではない。

 主権者であることを信じ切っている国民がそれを望んでいることも原因であろうが、主権者である割には彼らは情報を得ることだけ(情報に一喜一憂することも含む)に喜々とし、行動に移すことはほとんどない。投票によって政権交代を起こすこともなければ、何らかの代議員に立候補することもなく、デモンストレーションをすることもない(稀にそういうことが起こっても、表面的に左掛かった幼稚な児戯に過ぎない)。

 さらにニュースや報道番組のつまらなさは(それを見ている者も含めて)、その暗いニュースに対して「なぜこうなのか」「変えなければならない」などとてきとうな意見を述べつつ―上述のとおり絶対に誰も行動に移さない。「意志」とは「行動」されて初めて発生するので、決して「行動」に移さない人たちの意見には「意志」がないのであり、論理的に見て「てきとうな意見」を吐いている―、世の中にはまだまだ楽観的に見るべき点があることを示すように、いたずらに明るいニュースを報じるのである(たとえば、パンダの映像、スポーツの勝敗、新技術の開発など)。人々は暗いニュースで沈んだ心をそれらの明るいニュースで相殺されたかのように感じ、つかの間その憂いから逃れることができるらしい。

 日常の行動を見ても、行楽施設は毎週混雑するわけだが、大小さまざまな暗いニュースに沈みながらも、(ほとんどの場合無意識に)心の平衡を保つべく、そこに赴いて憂さ晴らしをし、自分の人生や世の中もまだまだ捨てたもんじゃないなどとうそぶく。しかし、これは企業の広告に従っていたずらに消費活動をしているだけ(そうじゃない場合があることも理解している)なので真に晴れた心は得られない。そのため、同様のことが終わりなく繰り返される。

 さて、これだけいろんなことを否定して自分でも楽しいわけはないのだが、世の中に嘆息することが目的ではなく、とどのつまり「積極的な生」を手に入れたいのであり、そのための過程であることを念のために確認しておく。

 では結局われわれはどう行動すればよいのだろうか。もちろん、答えは簡単には出せず日々模索中なわけであるが、少なくともいたずらに自分自身の生を未来に拡張してはならない。懐古的に過去に執着することも当然避けなければならない。過去は現在に積極的に活かされるためにこそ目を向けられるべきである。

 狩猟採集生活から農耕社会に移行した頃から、「未来」の捉え方が変わり、それは現代にいたるまで継続している。具体的には、統一された時計による社会の支配とスケジューリングされた生活、将来のための貯蓄や投資、あらゆる企業活動など。なので現代に生きる限り「未来への生の拡張」は基本的には避けることができない。これが結局「現在の生」に虚無感を与えてしまうことになり、われわれに「真の行動」をとることを躊躇させる(あるいは、そんなことができるという思考すら排除してしまう)。もちろん山奥で遁世でもすれば逃れられるだろうし、その叶えられない想いを一部だけでもかなえようとして田舎へ移住する者が少なからず存在するようだ。

 でも逃れたいわけではない。現代社会に生きながらも、「真の行動」をとる人間でありたいのである。以上、雑言でした。

 (「真の行動」といって、政治家の暗殺であったり、無差別テロリズムであったり、はたまた自殺であったりは絶対に拒絶する)

自叙伝-幼少期 その5(No.8)

 今回の話は何も幼少期に限るものではないが―全編通して、段階に分けて記述することはどちらかというと便宜上のもので、それほど大きな意味があるわけではない―、「言葉」による伝達(教説、説教、教育、意思疎通など)にいかほどの役割があるのかを考えてみたい。

 アニメ『ドラえもん』では、(今はどうか知らないが)かつて自分が見ていた頃、主人公ののび太がテストで悪い点をとったことに母親が怒り、滔々と説教をするというシーンがよく見られる。のび太は毎回のように長時間説教されるのだが、そのたびに説教されたことに疲弊するのみで(ドラえもんに慰められるのもおなじみ)、深く反省することや、母親の言葉を戒めにして自分を見直すということはまずしない。ここでは説教の(子どもに対する教育的な)効果は全く見られないのである。一方で、記憶が曖昧で恐縮なのだが、のび太もそのような口うるさい母親(または父親)に対して尊敬の念を抱くようなシーンが稀に描かれていたように思う。そのようなシーンでは、母親がのび太に対して教育的効果を意識して(あるいは意識せずとも)言葉による説教を滔々と行うようなことはなく、「格好いい大人の姿」を見せる。ただ、それだけである。のび太は母親の言葉に心を動かされるのではなく、自分よりも偉大な存在であることを無言で示す姿に感動し、日常ではあまり抱くことのない敬意を母親に対して示す。

 自分の子どもの頃を思い起こしてみてもそうかもしれない。両親だけでなく、教師や野球のコーチなどの大人で、その言葉だけに感動することはなかったし―むしろ感動的な言葉など何も記憶にない―、(言葉も含めて)全体としての姿に何かしらの凄みを感じたからこそ敬意を抱いただと思う。

 言葉による伝達というのはよほど人には響かないということではないか。ちなみに「有用性を持つ知識」とは、①一般性があり、②他の知識と関係性を有した孤立したものでない、③場面応答性(必要とされる場面でこそ利用可能である状態)のあるものを言うようである(「私たちはどう学んでいるか」鈴木宏昭)。つまり、「その人にとって」「利用可能」でない知識はそもそも「知識」ではないということである。人にとって何が問題か、何が重要かは、その人の置かれている環境によるところが非常に大きく、ただ単にそこにあるモノとしての情報など「知識」とは言えないということである。だから、他人の言葉が心に響くことがあるとすれば、その人の人生にとってその言葉が何か重大な意味を持つ(喫緊の課題の解決に有用、心にしこりとして残っていた出来事の理解を促す、など)場合ということになる。ピンポイントにその人に響く言葉を放つことなどそうそうできることではない。だから、他人の言葉はたいてい心に響かないし、残らないのである。

 もう少し踏み込むと、人は「他人の言葉」、というよりはむしろ「他人の言葉が持つロジック」に動かされるのではない。言葉が人を動かす主な場面としては、商業広告やイデオロギー的表現が思い起こされるが、そのいずれもロジックで人を動かしているのではない。それらの作成者はロジックで人が動かされるものではないことをよく理解しており、「意識的にロジックを利用しない」という手法をとる。たとえば、商業広告に使われるコピーライティングは積極的に短文で瞬間的に人の記憶に残るよう工夫されている。「八紘一宇」という言葉は、その意味があえて国民に明確に示されることなく、なんとなくの雰囲気を持たせつつマスメディアがイデオロギーとして浸透させていった。

 これらの例はもちろん悪い方向に至ることがしばしばある。「八紘一宇」や「一億玉砕」という言葉が悲劇をもたらしたことは言うまでもないし、企業のコピーライティングに右往左往させられ、”なりたい自分”を企業によって作り出され、それを追従するだけの人形のような受動的消費者が生み出される。つまり、ロジックを否定した短文による表現は人を「動かし」はするものの、事実はあくまで「動かされている」ということに過ぎず、能動的に自身の人生をよいように構築していこうという主体的な意識を醸成するようなものではない。No.7でも述べたように、未来を思って行動することには根源的な難しさがある。それは、未来完了の視点を取り入れなければならないから、という前回の話に加えて、山本七平の「空気の支配」に従うと、人は未来に触れることができず、かつ、未来は言葉でしか構成できない、そして、人は言葉によっては説得されず、そこにあるモノとして感情移入することで動かされる、という事情があるのだと思う。

 では、人は他人の何に心を動かされるのであろうか。答えは簡単で、他人の熱意や熱量、ひたむきな姿勢、何とも言えない凄味、などである(書いてしまうと何とも拍子抜けではなかろうか?だから言葉は怖いのだが)。ロジックで人を説こうとするのでもなく、未来のことを考えるよう説教・説得するのでもなく、すさまじいエネルギッシュさを持った人間の迫力にこそ心を揺さぶられるのだ。そのような人にはもはや合理性など何も必要ではない。むしろ不合理的姿勢のほうがよい場合すらあろう。「合理性を超えた不合理性」(「日本の難点」宮台真司)は人の心を動かすだけでなく、その人の現実での主体的な行動をも引き起こす(もちろんこれも悪用される可能性はあるのだが)。たとえば、新選組土方歳三などは喧嘩っぱやい危うい人間で、言葉で人に語りかけるようなタイプではなかったようだが、多くの人間が彼に惹かれて入隊したし(たしか。記憶があいまい)、エレファントカシマシ宮本浩次は、ライブ中ほとんどMCをしないし、しゃべっても支離滅裂なことが多い(歌詞もよく忘れる)のだが、そのパフォーマンスに人は感動し、現実にも生きる気力を沸き立たせてくれるすさまじい人間である(私も影響されている一人。歌詞は楽曲としては重要な要素の一つかもしれないが、ライブパフォーマンスにおいては、極端な話、どうでもいい)。ウェーバーの「カリスマ的支配」もここに該当するであろう。

 昨今、Twitterを中心としたSNSでくだらないギロンが横行しているようだが、そんなものには何も社会を動かす力はない。ただ、自分や相手の内面に暗い部分を積み重ねていくだけであろう。言葉やロジックで人を説き伏せることが正しいことのように思われがちだが、それは「内容が正しい(かもしれない)」というだけであり、別にそれが必ずしも「社会的に正しい行動」ということにはならない。利己性を全面に出した言葉や行動は対立こそ生めど、社会を良い方向に変えていけるような力はない。

 利他性を感じさせる、不合理ですらある力強い姿―こういった大人が増えていけば、社会は少しでもいい方向に動く(少なくとも、動こうとする)のではないだろうか。「ドーンといけ」(宮本)というコトバには「言葉」以上のものがあるのである。

自叙伝-幼少期 その4(No.7)  

「他人」の経験から学ぶ難しさを「未来に学ぶ」ことに転換することについて検討してみる。なお、本稿は大澤真幸の『夢よりも深い覚醒へ』に則る部分が大きい。

 未来という時点はその不確実性が本質にあり、ゆえに未来の自分も未来の他者も論理的にはどちらも「他者」であると言うことができる。ここまでは「過去の自分」=他者という考え方と同じであるが、未来の場合は簡単にそこに感情移入することができない。よって「PすればQするだろう」(Qは将来の自分にとって不幸な事態を指す)という論理の推測をしたときに、Qはあくまで自分とは距離のある事象としか感じることができず、そこから今の自分の行動を見直すような思考に至ることは難しい。

 ロールズの貯蓄理論は、社会はその時だけ存在するものではなく、長期間にわたって人々が協働することで実現し、富の分配は現在世代のものだけではなく、未来世代をも含めたものであることが必要だとする。フレチェットの恩の概念は、現在世代は過去世代に生かされてきたのであり、すなわち過去に対して負債を持っている、だから、未来世代に対してわれわれはそれを返済しなければならないとする。いずれの考え方も、現在世代は未来世代のことを考慮し、未来世代のためによりよいものを残さなければならないことを訴えかける。それを個人に置き換えると、人は今のことだけを考えるのではなく、将来の自分のことを考えて行動しなければならない、ということになる。それ自体はもっともな言説であり、幼少のころから耳にタコができるほど聞かされてきたことだと思う。しかし、実際のところはどうか。環境への対応など、少しずつ改善がなされている部分はもちろんあるものの、将来に富を分配するとか、過去からの負債を返済するという意識で行われているものではなく、あくまで現時点の「成長」を持続化させることが主とされているようであり、手放しに楽観視できるものではなさそうなところがある。個人の目線でも、たとえば明日眠くなったら困るけど、今ゲームが面白いから夜更かしする、というほんの少し先の「未来の自分」にとってさえ損になる行動をたびたびしてしまう。(行動経済学で、利益が目の前に迫れば迫るほどそれが大きく見える、といったあたりが詳細に説明がされていたはずだが今は置いておく)

 単純に「PすればQするだろう」という論理だけでは、人はなかなか今の自分を変えること、つまりQを避けるために行動PをRに変更させることはできない。

 しかし、カントが、行為がその成果の受取人が未来の他者であるとわかっていても営々と従事される場合があると述べているとおり、人間にはそういう真逆の性向があることもたしかではないだろうか。たとえば、清掃のボランティア活動を思い浮かべてみると、今の誰かを手助けするだけでなく、未来の誰かが気持ちよく生活できるように思って―もちろんそれだけが目的ではないにしても―取り組まれている節は、否定できないだろう。つまり、考え方次第では、人は「未来の自分」を思って現在の自分を変えること、「PすればQするだろう」という論理から行動Rを起こすことが理屈の上ではできるのではないだろうか。

 ここで重要になってくるのは、ただ「PすればQするだろう」という未来形の思考では効力が弱いということである。P以外の選択肢=Rという選択肢が、まさに今の自分に与えられていると強く感じられなければならない。PをとるのかRをとるのかという選択の可能性を今感じることができれば、それはつまり「未来との連帯」がなされているということであり、選択次第ではQを回避することができることになる。要諦は、今の自分の行動が将来の自分と密接に関係していることを痛烈に感じることができるかどうかである。そのためには「Pすれば」という未来形の思考ではダメで、「Qしてしまっているだろう」という未来完了形の思考が要求されるのだと思う。未来完了とは現在の自分と未来の自分が連帯していることを表す概念であり、このとき、今の自分の行動が未来の自分に影響することがその思考において表現されている。「Qしてしまっているだろう」と考えたとき、Q時点の自分=「未来の自分」から再帰的に今の自分を見ることとなり、その結果、Rを選択肢として加えることができるようになる。

 予定説によると、将来自分が救済されるかどうかはすでに定まっているという恐ろしい事実を信者は与えられている。普通に考えて、すでに自分の救済が定まっているのであれば、今の自分が何をしようと同じであり、自暴自棄に陥りそうなものである。しかし、実際は彼らプロテスタントはその禁欲主義によって資本の蓄積という現在にまで至る資本主義の精神を具現化したことになっている。

 彼らは、未来は決定しているから今の自分が何をしても一緒だとは考えなかった。決定している未来によって、今の自分に、善行を為すか為さないかの選択肢が与えられているというように逆の思考=再帰的思考をしたのである。今善行を為す自分はきっと天国に行っているはずだとしてさらに善行を重ねるようになるし、未来は決定しているから善行は為さないなどと考える自分が救済されるはずがないと考え、善行を為すのである。未来完了の視点を取り入れることで現在の自分の行動を変えることができるよい例であろう。(彼らの禁欲主義の是非は問わない)

 ちなみに、これはあくまで自分自身の行動の話であり、他人の行動を変えることの難しさは個人のそれの比ではない。

 映画『君の名は』で主人公三葉(入れ替わった瀧)は破滅の未来を知ったために、ただ流星を眺めるのではなく、町民を避難させるべく行動を起こすことになる。漫画『進撃の巨人』の主人公エレンも同様に破滅の未来を知り、彼の場合は覚悟をもって、(あえて未来を変更させるのではなく)そのままの未来(地鳴らし)に至らしめるために行動を起こすことになる。いずれにしても未来を知ったことから現在の自分に他の選択肢が与えられていると感じて、自分の意志で行動を選択することができるようになったわけである。(未来完了の極致のような状況が表現されている)しかし、エレンの場合とは異なり三葉の場合は、自身の行動だけでは町民を避難させることができず、町長である父親を説得しなければならない(しかも一度説得に失敗している)。結局物語としては、その後父親を説得して町民を避難させることには成功したのだが、父親を説得できたシーンは描かれなかった。これは、未来完了の思考が他者にまで影響を及ぼすことがいかに難しいかを示しているのではなかろうか。つまり「描かなった」というよりは、「描けなかった」のではないか。「未来との連帯」とは結局個々人が個々人の未来と連帯するしかなく、他者の未来を共有してそれと連帯することはできないのかもしれない。ここをどうクリアしていけばよいのかについては引き続き考えていきたいし、ここがクリアできない限り、人類は永遠に将来世代のために現在世代の行動を真に変容させることはできないということになる。

自叙伝-幼少期 その3(No.6)

 私は幼少のころから注意力散漫なところがあり、よく怪我をしたし、交差点で自動車と衝突事故を起こしたこともある(交差点を自転車で一時停止もせずに突っ込んだ私の責任)。また、両親の言うところによると、出かければすぐに迷子になったそうだし、電車とホームの間に挟まって落ちかけたこともあれば、遊具で遊んでいて脚を骨折もした。両親には相当冷や汗をかかせたのだろうが、親の心子知らずで、おそらく特に何とも感じていなかった。

 しかし、ここ最近、ずいぶん自分が慎重というか用心して行動しているように思う。もちろん、今でも身体をドアや壁にしょっちゅうぶつけるし、包丁で手も切るし、IHの熱源の箇所で軽く火傷することも数えきれないほどある。ただ、大きな事故にあうこともないし、怪我をすることもない、というよりも、そういう場面になるべく出くわさないように無意識のうちに行動を制限しているのだと思う。それが人のアクティブさを奪っている面は否定できないのだが、特段身体活動において冒険心にみなぎることもないので、別に無理をしているわけではない。ちなみに、運転免許証を取得していないので、自動車やバイクを運転することもない。

 最近になって突然このように変わったというわけではなく、漸増的にそうなったのだと思うのだが、幼少の頃とのギャップを生んだものは何だろうか。かつての怪我や事故を今思い返してみると正直恐ろしいことも多いし、両親も言うように、よく無事に生きてこられたものだと思う。そういう、過去の経験に対する恐怖心のようなものが、大人になって、徐々にではあるが切実に感じられるようになって、それが潜在的に自制心を植え付けたのではないだろうか。

 このように、人は自分の過去の経験に学んで―私の場合は意識的な「学習」ではないが―現在の行動を変容させることができる。しかし、である。毎日ニュースを見ていて思うのは、なぜこうも同じことが毎日のように繰り返されるのか、ということである。悲惨な事故や事件は幾度も繰り返され、その報道に接するたびに人はやるせなさを感じる。しかし、その感情とはあたかも無関係にそれらは決してなくなることはない。問題は、人はなぜ過去の経験を活かせないのか、ということだ。過去の経験に学んで、それを自分にとっても切実なものと捉え、現在の自分の行動を変容させること―これがなぜできないのだろうか。

    以下では、いくつかの場合に分けてこのあたりのことを検討してみたい。

 

(1)過去(または同時代)に学ぶ

①自己の経験から学ぶ

 これは最初に述べた私の経験談と同じことだが、人は過去の自分の経験、たとえば、あやうく事故にあいかけた、事故に巻き込まれかけたといった出来事や、もっと卑近な例でいうと、床のコードに引っかかって転びかけたとか、生蠣で腹の調子を崩した、などの経験から、自分の行動を変容させることができる。

 「自己の経験」とはいえ、過去の自分と現在の自分はあくまで別の存在である。そこに同一性を見出せるのは現在の自分が(ときにあやふやなものだが)記憶を有しているからである。つまり、「過去の自分」=他者と考えることは大げさなことではない。そのように考えたとき、「過去の自分」に対して今の自分は一歩距離を置いた客観的な視点を持つことができ、これは「他人」に対する態度と同様である。しかし、「他人」の場合とは一点大きな違いがある。それは、純粋な「他人」とは違って「過去の自分」に対しては強烈な感情移入がなされるということである。もちろんその条件は先に述べた今の自分が有する「記憶」である。この「記憶」、言い換えると「印象」が、個々のケースにおいて強ければ強いほど、「過去の自分」に対する感情移入は強くなるはずだ。たとえば、交差点に自転車で突入し自動車と衝突した当時小学一年生だった人間は、その時期の中では、その体験が突出して印象深く脳裏に刻まれている。その結果、その人間は(現在はもちろんのこと、その時点から)、小学一年生の頃のその経験に深く感情移入し、交差点を渡るときに事故にあうことを恐れ、今に至るまで、そしてこの先も前後左右の注意を怠ることを決してしない。もしこれが「他人の経験」であれば、たとえば、テレビのニュースで同じような報道を見ただけの人間の場合、このような感情移入をすることは普通ないし、恐れを抱くこともないはずである。それは、同じ「過去の自分」=「他人」=「他者」ではあっても、「記憶」という条件を同じにしていない―後者の場合にあるのは単なる「情報」に過ぎない―ことから、その感情移入の程度に大きな差が生じるからである。

 

②他人の経験から学ぶ

 ①でも少し触れているが、自分でない「他人」から学ぶことは、その感情移入の程度が弱いことから難しい。とはいえ、もちろんその「他人」との距離次第では感情移入の程度は変わってくる。たとえば、小さな村落共同体レベルであれば、村人がいくら「他人」とはいえその距離も近いだろうし、同じ小学校のクラスメイトが事故にあったと聞けば、他人事として馬耳東風とは行かず、少しは注意を働かせることにつながるはずだ。

 

 ■組織における学習

 村落共同体の話がでたついでに、ここで少し話が脱線するのだが、組織における過去または現在の事象について考えてみたい。

 組織においては個人以上に過去の経験、出来事、事例からの学習が重要であることが強調される。組織、集団が生み出す成果、結果の社会的、経済的な影響は、個人のそれとは多くの場合比べ物にならないほど大きいもの―組織の特定のメンバーだけに影響するものから、ときには地球規模で影響する場合もある―であるからだ。しかし、その割には組織においても同じ失敗や汚職、捏造などが何度も繰り返されてきており、特にここ近年では製造業の品質問題(検査結果の改竄、提出記録の捏造など)が後を絶たない。そのたびに原因究明や対策がなされるのだが、そもそも組織というのは、その構成員の流動性を前提にしつつ組織としての枠組みは不変であるという概念的建造物であるからして、中長期間にわたって構成員個々に対して過去の経験から学び、かつ行動変容を要請することは根源的に難しいのである。たとえば、2022年に組織内で不正行為が判明し、その当時の組織構成員全員にとって痛烈な印象を与え、徹底的な原因究明と対策が施されたとする。そこから数年の間は、構成員は当時の痛みを忘れず、新しく入ってくる構成員にも教育、訓練、事例共有を怠ることなく続けていく。そうして同じ問題が起こることは回避されるのだが、時がたつにつれて、次第に当時の痛みが和らいでいくだけでなく、当時の痛みを肌で感じていない構成員が組織の大部分を占めるようになってくる。彼らが事件に対してする感情移入の程度は徐々に弱まり、いつしか、事件の内容は引き継がれ対策も継続して取られていたとしても、現代世代の構成員にとってそれは悲しみ、苦しみ、決して同じことを繰り返してはならないと決心するような出来事ではなくなるのである。簡単に言うと、頭で理解しても心では何も感じていないのである。

 しかし、彼らの態度を責めることはできない。事件や事故が風化するのは、何も人が忘却する生き物だからというだけではない。人は「他人の経験」にそれほど感情移入できるほどの生き物ではないのである。戦争体験を毎年8月に語ることで風化を防ごうと努力したとしても、果たして現在世代の人間は、当時の戦争に「自己の経験」と同じ水準で感情移入できるだろうか。ただ戦争の悲惨さを語るだけではおそらくそれを彼らから引き出すことはできない。仮にできたとしても、それは少人数にしか及ばないだろうし、持続期間もそれほど長期には渡らないことだろう。

 では、事件や事故の風化を防止する方法として何が考えられるだろうか。ひとつには、組織として繰り返し学習棄却、すなわち自己否定的学習を行うことであり、それを組織構造レベルに落とし込み、マネジメントとして実践することである。単に事例を引き継ぎ対策を継続するだけでは、その効果は見る見るうちに落ちていくことは先に見たとおりである。なので、組織行為の成果がその目的・理念と齟齬をきたしていることがわかった段階で、既存の構造や体制、知識を疑い、それらを刷新することが必要となる。軌道修正する能力が肝要ということである。もっとも、行為の成果が目的・理念と齟齬をきたしているかどうかの判断自体も組織として体系的になされなければならず(構成員の経験レベルに任せてしまうと結果は同じである)、そのような自己否定的学習を体系的に組み立てることはマネジメントに要求される最も難しい事項のひとつではあろう。

 風化を防ぐもうひとつの手段として、先に述べたことと食い違うようであるが、あえて感情移入に訴えかけることである。とはいえ、ただ過去の経験を受け継ぐだけでは現役世代の感情移入に訴えかけることは難しいと先に述べた。なので、ここでは、特殊な感情移入を引き起こすことが必要となる。ただし、この手法は強烈な反面危うさもあり、組織として果たして長期間にわたって流動的な社会で生き残っていけるのかという懸念は大いにある。つまり、その事件や事例を物神崇拝の対象に仕立て上げることである。対象となる事件あるいは事故をXとすると、この場合組織の構成員はXを信仰の対象とし、それを絶対者として強烈に感情移入することになるのである。たとえば、封建社会における「主君」、明治日本における「天皇」、戦後における「民主主義」が、日本社会においてXの位置に君臨している。Xは決してその根拠を問われることがなく、また、正当性に疑義が呈されることもない。人々はただ盲目的にそれらを信仰するだけである。この状況を作り出すことができれば、組織の構成員が流動的であるという根源的な難しさをクリアすることができ(実際、日本の構成員は変わっていったにもかかわらず、主君や天皇、民主主義に対する物神崇拝は革命的出来事が起こらない限り消滅しない)、強烈な―特殊な―感情移入を引き起こすことができる。オウム真理教統一協会などもその例であろうし、また、そこまでいかずとも、消費者が特定の製品や商品だけを好み、それ以外のものを購入することを一切拒絶しているのであれば、それも立派な物神崇拝である。なので、一組織レベルでこの物神崇拝を形成することはそれほど難しいことではない。しかし、先にも述べたとおり、この方法は諸刃の剣で、組織を完全に硬直させてしまうことになる。外部の環境がいかように変わろうとも、Xへの物神崇拝が変わらないので、社会の変化に組織として対応することができないのである。変化に対応できない組織が長続きしないことは、環境変化に対応できなかった生物が淘汰されることと同じである。なので、およそ健全な方法であるとは言えないのだが、しかし、ここで言いたいのは、人間の感情移入に訴えかけることは非常に難しく、通常の方法では事件や事故の風化を防ぐことはできないということである。

    なので、ひとつめに挙げた、組織として体系的な秩序を構築するように、ひたむきに努めることこそが、長い目で見たとき結局は最善の方法なのではなかろうか。

 

 さて、話を元に戻すと、「他人」の経験から学ぶことの難しさだが、それはニュースに連日接することによって、逆にその難しさを増してしまうことになる。人間の感覚は厄介なもので、刺激に対してすぐに慣れてしまう。どんなにおいしい食べ物であっても、それを繰り返し食べているとすぐに慣れてしまうように、視覚情報にしても、最初はショッキングに見えていた映像も次第に日常的なものに感じられるようになり、ついには何も感じなくなってしまう。(CMやドラマの映像手法―コマ割や字幕、音声のつけ方、発生方法など―が変化し続けているのは、同じ手法では消費者に与える効果が徐々に弱まってしまうからである。映像が過激になっていくのは消費社会では避けられない事態なのである)そうしてリアリティを感じられなくなるからこそ、「他人」に起きた出来事に対する感情移入もより一段と、日に日に弱くなっていくのである。普通の方法で「他人の過去(もしくは現在)の経験」に対して感情移入を強く引き起こすことの難しさは、組織の箇所で述べた内容とそれほど変わらない。やはりその限界はすぐに見えてくる。加えて、個人の場合は、所属している組織を除いて、環境に強制されるということが起こりにくいので、対象Xに対して物神崇拝をするという荒療治は組織の場合よりも難しい。

 そこで、いささか奇妙に聞こえるかもしれないが、ここで「未来に学ぶ」という視点に話を接続することで、その難しさを乗り越えてみることを試みる。

 

次回に続く。

自叙伝-幼少期 その2(No.5)

 序文で母親が割合教育に熱心な方で、父親も塾の講師であることに触れた。どちらかというと小さいころからお勉強一辺倒になるかと想像されるかもしれないが、意外とそうでもなく、テレビゲームも制限付きとはいえ比較的自由にやらせてもらったし、スポーツや読書も強制されて嫌々やっていたということはあまり記憶にない。割合自由にやらせてくれていたのだと思う。両親として何も計算や意図がなかったとはもちろん言えないし、何かに取り組ませるということにはそれ自体に何らかの目的がかならずあるはずであるが、少なくともその時々の私の関心に従って取り組むことが優先されていたのだと思う。

 子供の頃のことは記憶には残っていても、なかなか肌感覚として想起することは難しく、やはりある種異なる世界を持っていたのだろう。もっとも、大人が子供の世界を単純に別世界として認識することには、都会の孤独な生活に倦んだ人間が田舎の牧歌的な生活に憧れるといったような、19世紀的な、理性的人間が崇高な美や原初的自然に無垢なまでに憧憬の念を抱いたロマン主義的な傾向が含まれていて、それでは子供の目線を見誤ることになる。『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』のように大人の世界と子供の世界が厳然と分かれているということはないはずである(ちなみにこれらの作品では、両世界を分けて描いているにもかかわらず、大人が子供の世界を単純に牧歌的なものとして眺めるのではなく、ある種の理解を伴って「見守っている」ように感じられることが印象的である)。ここで重要なことは、小説でも漫画でもアニメでも何でもよいが、その時々にしか鮮烈に感じられず、十分にその要素を吸収することのできないようなものが確かに存在する、ということである。幼少期の話ではないが、木田元ドストエフスキー太宰治は20歳前後で読んでおかないといけない、森鷗外川端康成は相応に年を重ねないとよく理解できない、というようなことを言っていたが、個人差はあれども、人生のうちでその対象を最もよく理解できる時期というものがあるのだと思う。それは、その小説や絵本なりがいくら事の本質を突いていたとしても、時期を逸すると、そこにある本来の面白さや切実さを感じられないということだ。

 大人の目線でいうと、やはり子供は将来「役に立つ」ことに優先して取り組むべきだと考える傾向にある。しかし、それはあくまで「大人になった自分」がこれまでの人生および現時点での生活を総合的に考えあわせて算出した、「現時点」での自分の評価結果に過ぎないことを忘れてはならない。これまでの人生も、その大人にとっての「現時点」も何もない幼少期の子供に対して、自分にとってだけ正しいように思われる計算結果を適用することは論理的に正しくない。その大人の「現時点」がよりよくあるためにはどうするべきだったかを反省的に思弁しているだけなのだから、これから全く別の人生を歩んでいく子供には何ら関係性がない。もっとも、大人がそこに関係性を見出す、というよりもむしろ作り出すからこそ、子供は大人(親)と同じ道を歩むことが多いのだろうし、結果的に「うまく」いったのであればそれが論理的に誤りだったかどうかなどは決して考えられることがない。逆に、うまくいかなかった場合に限り、その論理的過ちが露呈することになるのだろう(当事者たちがそれに気づくかどうかは別の話だが)。

 また、教育の分野では「一億総評論家」状態で、やたらに多事総論、百家争鳴になるのが常であるが、それは誰もが自分の人生をモデルケースにして、その時点での自分に対する評価に基づいて考えるからではなかろうか。今の自分をいいように捉える者もいれば、悪いように捉える者もいるし、それを過去の自分の人生と照合する―とすれば、モデルケースは当然各人各様になろうし、答えはいくらでも導き出される。様々に議論がなされることは本来良いことだと思っているのだが、単なる主義主張の押し付け合い、あるいは馴れ合いがはびこっている現状を見る限り、事はそう単純ではないらしいことがわかる。

 大人が現時点での自身に対する評価を子供に適用することの論理的過ちについて、それはそれとして、「役に立つ」かどうかの観点で語られがちなのはなぜなのか。

 この場合の「役に立つ」というのは、どちらかというと資本主義社会の中で活躍すること、すなわち合理的に(少なくとも高い水準での合理性を持って)生きることが基本的によいことであるということを含意していないだろうか。子供のことを考慮すると、社会の中でよりよい形で生きてほしいと思うから、このように考えることはあながち間違いではない。しかし、そのように功利主義に偏った思考は、前回述べたとおり、ひとつの原理に依拠した生き方に陥ってしまっている。それは社会を広く見たときに、原理対原理の対立を生む危険性があるし、また、個々人について見た場合でも、ひとつの原理(軸)に依拠した生き方は、一方向に無理が生じたときの方向転換を困難にする。

 先に述べた「好機を捉える」という話と考え合わせて、結論めいたことを述べるとすると、基本的には子供はその時々の関心に従った好きなことをする(大人がそうさせる)のがよいのではなかろうか、そして大人はそういう寛容な姿勢というか、我慢強い姿勢が求められるのではないか。もちろん子供がなんでも好き勝手にやってよいというわけではなく、大人は適切な水先案内人でなければならない。そしてこのあたりの塩梅は非常に難しい。ロックの『教育に関する省察』には、遊び道具をたくさん持っている子供は、たくさん持っていることに慣れてしまい、自分は十分に持っているのだということに思い至らず、常に何か新しいものはないかと求めることになる、とある。特にネット社会ではネット上に常に新しい(そしてそのほとんどがどうでもいい)情報が追加されるので、その傾向はとどまることを知らない。どこで境界を設定するべきなのかという問題はますます難しくなっているのだと思う。

 理想論に傾いているかもしれないが、大人がうまく時宜に適するように導くことで(大人がモノを提供する事が前提なのでその役割も大きい)、子供はその時々で触れる対象の要素をもっともよく吸収し、また多種多様な物事に接することによって、ひとつの方向に縛られることがなく、―後々「役に立つ」という功利主義的側面が全くないというと嘘になるが―自身のうちに複数の「軸」を持たせることができ、いわば「余裕」のある生活を送ることができる(そのような素養を培うことができる)。

 もっとも、このような考えを(大人が)功利主義的にしたのだとすると、「功利主義的観点から非功利主義的に生きること」を選択した(させた)こととなり、それは本末転倒である。ここでのポイントは「非功利主義的に生きる」ことを原理として選択するのではなく、そういった原理の選択を避けた上で、「功利主義的に”のみ”生きない」ということである。

 ここで、「功利主義的に”のみ”生きない」ことは「功利主義的に”のみ”生きない主義」ではないかと反論されるかもしれない。「相対主義」も「絶対主義」の裏返しの「絶対主義」だという理屈に近いかもしれないが、「功利主義的に”のみ”生きない」というのはあくまで自己の姿勢の話であり、たとえば「多文化主義」は場合によっては「排外主義」に転じうるが、それは「多文化主義」と言いつつ、そこに自己の姿勢を超えて、相手の姿勢に異論を唱え、自身の主張を理解させることを潜在的な目標にしているからではないだろうか。あるいは、多文化主義の背後にひとつの原理が潜んでいて、それとは知らずに表向きは多文化主義だと謳っているに過ぎないのか知れない。結局のところ、言葉の問題ではなく自身の姿勢の問題なのではなかろうか(ただし、だからと言って、相手に何も言わないこと、黙することが必ずしも正しいわけではない。「適切な議論」はむしろ望ましいのだろうが、それがいかに難しいかは、先述のとおり論を俟たないだろう)。

 ここまで来るともはや幼少期の話を超えてしまっていて、議論が錯綜しだしているだろうからここまでにしておくが、私の中でも大事なテーマの一つなので、今後もっと突き詰めて考えていきたい。

 

 さて、今回は幼少期において何に取り組むべきかがテーマとなったわけだが、何分若輩者ゆえ理想主義的な部分があることは否めない。このあたりのことを扱ったよい参考書があれば教えていただきたく思う。