oreno_michiyuki

自叙伝を書き記したく始めました(2022年10月~)。自叙伝と知的生産による社会や歴史の弁証法的理解が目標です。コメントも是非お願いします。 ライフワークの「おうちご飯」もどしどし載せます!

自叙伝-幼少期 その3(No.6)

 私は幼少のころから注意力散漫なところがあり、よく怪我をしたし、交差点で自動車と衝突事故を起こしたこともある(交差点を自転車で一時停止もせずに突っ込んだ私の責任)。また、両親の言うところによると、出かければすぐに迷子になったそうだし、電車とホームの間に挟まって落ちかけたこともあれば、遊具で遊んでいて脚を骨折もした。両親には相当冷や汗をかかせたのだろうが、親の心子知らずで、おそらく特に何とも感じていなかった。

 しかし、ここ最近、ずいぶん自分が慎重というか用心して行動しているように思う。もちろん、今でも身体をドアや壁にしょっちゅうぶつけるし、包丁で手も切るし、IHの熱源の箇所で軽く火傷することも数えきれないほどある。ただ、大きな事故にあうこともないし、怪我をすることもない、というよりも、そういう場面になるべく出くわさないように無意識のうちに行動を制限しているのだと思う。それが人のアクティブさを奪っている面は否定できないのだが、特段身体活動において冒険心にみなぎることもないので、別に無理をしているわけではない。ちなみに、運転免許証を取得していないので、自動車やバイクを運転することもない。

 最近になって突然このように変わったというわけではなく、漸増的にそうなったのだと思うのだが、幼少の頃とのギャップを生んだものは何だろうか。かつての怪我や事故を今思い返してみると正直恐ろしいことも多いし、両親も言うように、よく無事に生きてこられたものだと思う。そういう、過去の経験に対する恐怖心のようなものが、大人になって、徐々にではあるが切実に感じられるようになって、それが潜在的に自制心を植え付けたのではないだろうか。

 このように、人は自分の過去の経験に学んで―私の場合は意識的な「学習」ではないが―現在の行動を変容させることができる。しかし、である。毎日ニュースを見ていて思うのは、なぜこうも同じことが毎日のように繰り返されるのか、ということである。悲惨な事故や事件は幾度も繰り返され、その報道に接するたびに人はやるせなさを感じる。しかし、その感情とはあたかも無関係にそれらは決してなくなることはない。問題は、人はなぜ過去の経験を活かせないのか、ということだ。過去の経験に学んで、それを自分にとっても切実なものと捉え、現在の自分の行動を変容させること―これがなぜできないのだろうか。

    以下では、いくつかの場合に分けてこのあたりのことを検討してみたい。

 

(1)過去(または同時代)に学ぶ

①自己の経験から学ぶ

 これは最初に述べた私の経験談と同じことだが、人は過去の自分の経験、たとえば、あやうく事故にあいかけた、事故に巻き込まれかけたといった出来事や、もっと卑近な例でいうと、床のコードに引っかかって転びかけたとか、生蠣で腹の調子を崩した、などの経験から、自分の行動を変容させることができる。

 「自己の経験」とはいえ、過去の自分と現在の自分はあくまで別の存在である。そこに同一性を見出せるのは現在の自分が(ときにあやふやなものだが)記憶を有しているからである。つまり、「過去の自分」=他者と考えることは大げさなことではない。そのように考えたとき、「過去の自分」に対して今の自分は一歩距離を置いた客観的な視点を持つことができ、これは「他人」に対する態度と同様である。しかし、「他人」の場合とは一点大きな違いがある。それは、純粋な「他人」とは違って「過去の自分」に対しては強烈な感情移入がなされるということである。もちろんその条件は先に述べた今の自分が有する「記憶」である。この「記憶」、言い換えると「印象」が、個々のケースにおいて強ければ強いほど、「過去の自分」に対する感情移入は強くなるはずだ。たとえば、交差点に自転車で突入し自動車と衝突した当時小学一年生だった人間は、その時期の中では、その体験が突出して印象深く脳裏に刻まれている。その結果、その人間は(現在はもちろんのこと、その時点から)、小学一年生の頃のその経験に深く感情移入し、交差点を渡るときに事故にあうことを恐れ、今に至るまで、そしてこの先も前後左右の注意を怠ることを決してしない。もしこれが「他人の経験」であれば、たとえば、テレビのニュースで同じような報道を見ただけの人間の場合、このような感情移入をすることは普通ないし、恐れを抱くこともないはずである。それは、同じ「過去の自分」=「他人」=「他者」ではあっても、「記憶」という条件を同じにしていない―後者の場合にあるのは単なる「情報」に過ぎない―ことから、その感情移入の程度に大きな差が生じるからである。

 

②他人の経験から学ぶ

 ①でも少し触れているが、自分でない「他人」から学ぶことは、その感情移入の程度が弱いことから難しい。とはいえ、もちろんその「他人」との距離次第では感情移入の程度は変わってくる。たとえば、小さな村落共同体レベルであれば、村人がいくら「他人」とはいえその距離も近いだろうし、同じ小学校のクラスメイトが事故にあったと聞けば、他人事として馬耳東風とは行かず、少しは注意を働かせることにつながるはずだ。

 

 ■組織における学習

 村落共同体の話がでたついでに、ここで少し話が脱線するのだが、組織における過去または現在の事象について考えてみたい。

 組織においては個人以上に過去の経験、出来事、事例からの学習が重要であることが強調される。組織、集団が生み出す成果、結果の社会的、経済的な影響は、個人のそれとは多くの場合比べ物にならないほど大きいもの―組織の特定のメンバーだけに影響するものから、ときには地球規模で影響する場合もある―であるからだ。しかし、その割には組織においても同じ失敗や汚職、捏造などが何度も繰り返されてきており、特にここ近年では製造業の品質問題(検査結果の改竄、提出記録の捏造など)が後を絶たない。そのたびに原因究明や対策がなされるのだが、そもそも組織というのは、その構成員の流動性を前提にしつつ組織としての枠組みは不変であるという概念的建造物であるからして、中長期間にわたって構成員個々に対して過去の経験から学び、かつ行動変容を要請することは根源的に難しいのである。たとえば、2022年に組織内で不正行為が判明し、その当時の組織構成員全員にとって痛烈な印象を与え、徹底的な原因究明と対策が施されたとする。そこから数年の間は、構成員は当時の痛みを忘れず、新しく入ってくる構成員にも教育、訓練、事例共有を怠ることなく続けていく。そうして同じ問題が起こることは回避されるのだが、時がたつにつれて、次第に当時の痛みが和らいでいくだけでなく、当時の痛みを肌で感じていない構成員が組織の大部分を占めるようになってくる。彼らが事件に対してする感情移入の程度は徐々に弱まり、いつしか、事件の内容は引き継がれ対策も継続して取られていたとしても、現代世代の構成員にとってそれは悲しみ、苦しみ、決して同じことを繰り返してはならないと決心するような出来事ではなくなるのである。簡単に言うと、頭で理解しても心では何も感じていないのである。

 しかし、彼らの態度を責めることはできない。事件や事故が風化するのは、何も人が忘却する生き物だからというだけではない。人は「他人の経験」にそれほど感情移入できるほどの生き物ではないのである。戦争体験を毎年8月に語ることで風化を防ごうと努力したとしても、果たして現在世代の人間は、当時の戦争に「自己の経験」と同じ水準で感情移入できるだろうか。ただ戦争の悲惨さを語るだけではおそらくそれを彼らから引き出すことはできない。仮にできたとしても、それは少人数にしか及ばないだろうし、持続期間もそれほど長期には渡らないことだろう。

 では、事件や事故の風化を防止する方法として何が考えられるだろうか。ひとつには、組織として繰り返し学習棄却、すなわち自己否定的学習を行うことであり、それを組織構造レベルに落とし込み、マネジメントとして実践することである。単に事例を引き継ぎ対策を継続するだけでは、その効果は見る見るうちに落ちていくことは先に見たとおりである。なので、組織行為の成果がその目的・理念と齟齬をきたしていることがわかった段階で、既存の構造や体制、知識を疑い、それらを刷新することが必要となる。軌道修正する能力が肝要ということである。もっとも、行為の成果が目的・理念と齟齬をきたしているかどうかの判断自体も組織として体系的になされなければならず(構成員の経験レベルに任せてしまうと結果は同じである)、そのような自己否定的学習を体系的に組み立てることはマネジメントに要求される最も難しい事項のひとつではあろう。

 風化を防ぐもうひとつの手段として、先に述べたことと食い違うようであるが、あえて感情移入に訴えかけることである。とはいえ、ただ過去の経験を受け継ぐだけでは現役世代の感情移入に訴えかけることは難しいと先に述べた。なので、ここでは、特殊な感情移入を引き起こすことが必要となる。ただし、この手法は強烈な反面危うさもあり、組織として果たして長期間にわたって流動的な社会で生き残っていけるのかという懸念は大いにある。つまり、その事件や事例を物神崇拝の対象に仕立て上げることである。対象となる事件あるいは事故をXとすると、この場合組織の構成員はXを信仰の対象とし、それを絶対者として強烈に感情移入することになるのである。たとえば、封建社会における「主君」、明治日本における「天皇」、戦後における「民主主義」が、日本社会においてXの位置に君臨している。Xは決してその根拠を問われることがなく、また、正当性に疑義が呈されることもない。人々はただ盲目的にそれらを信仰するだけである。この状況を作り出すことができれば、組織の構成員が流動的であるという根源的な難しさをクリアすることができ(実際、日本の構成員は変わっていったにもかかわらず、主君や天皇、民主主義に対する物神崇拝は革命的出来事が起こらない限り消滅しない)、強烈な―特殊な―感情移入を引き起こすことができる。オウム真理教統一協会などもその例であろうし、また、そこまでいかずとも、消費者が特定の製品や商品だけを好み、それ以外のものを購入することを一切拒絶しているのであれば、それも立派な物神崇拝である。なので、一組織レベルでこの物神崇拝を形成することはそれほど難しいことではない。しかし、先にも述べたとおり、この方法は諸刃の剣で、組織を完全に硬直させてしまうことになる。外部の環境がいかように変わろうとも、Xへの物神崇拝が変わらないので、社会の変化に組織として対応することができないのである。変化に対応できない組織が長続きしないことは、環境変化に対応できなかった生物が淘汰されることと同じである。なので、およそ健全な方法であるとは言えないのだが、しかし、ここで言いたいのは、人間の感情移入に訴えかけることは非常に難しく、通常の方法では事件や事故の風化を防ぐことはできないということである。

    なので、ひとつめに挙げた、組織として体系的な秩序を構築するように、ひたむきに努めることこそが、長い目で見たとき結局は最善の方法なのではなかろうか。

 

 さて、話を元に戻すと、「他人」の経験から学ぶことの難しさだが、それはニュースに連日接することによって、逆にその難しさを増してしまうことになる。人間の感覚は厄介なもので、刺激に対してすぐに慣れてしまう。どんなにおいしい食べ物であっても、それを繰り返し食べているとすぐに慣れてしまうように、視覚情報にしても、最初はショッキングに見えていた映像も次第に日常的なものに感じられるようになり、ついには何も感じなくなってしまう。(CMやドラマの映像手法―コマ割や字幕、音声のつけ方、発生方法など―が変化し続けているのは、同じ手法では消費者に与える効果が徐々に弱まってしまうからである。映像が過激になっていくのは消費社会では避けられない事態なのである)そうしてリアリティを感じられなくなるからこそ、「他人」に起きた出来事に対する感情移入もより一段と、日に日に弱くなっていくのである。普通の方法で「他人の過去(もしくは現在)の経験」に対して感情移入を強く引き起こすことの難しさは、組織の箇所で述べた内容とそれほど変わらない。やはりその限界はすぐに見えてくる。加えて、個人の場合は、所属している組織を除いて、環境に強制されるということが起こりにくいので、対象Xに対して物神崇拝をするという荒療治は組織の場合よりも難しい。

 そこで、いささか奇妙に聞こえるかもしれないが、ここで「未来に学ぶ」という視点に話を接続することで、その難しさを乗り越えてみることを試みる。

 

次回に続く。