oreno_michiyuki

自叙伝を書き記したく始めました(2022年10月~)。自叙伝と知的生産による社会や歴史の弁証法的理解が目標です。コメントも是非お願いします。 ライフワークの「おうちご飯」もどしどし載せます!

自叙伝-幼少期 その2(No.5)

 序文で母親が割合教育に熱心な方で、父親も塾の講師であることに触れた。どちらかというと小さいころからお勉強一辺倒になるかと想像されるかもしれないが、意外とそうでもなく、テレビゲームも制限付きとはいえ比較的自由にやらせてもらったし、スポーツや読書も強制されて嫌々やっていたということはあまり記憶にない。割合自由にやらせてくれていたのだと思う。両親として何も計算や意図がなかったとはもちろん言えないし、何かに取り組ませるということにはそれ自体に何らかの目的がかならずあるはずであるが、少なくともその時々の私の関心に従って取り組むことが優先されていたのだと思う。

 子供の頃のことは記憶には残っていても、なかなか肌感覚として想起することは難しく、やはりある種異なる世界を持っていたのだろう。もっとも、大人が子供の世界を単純に別世界として認識することには、都会の孤独な生活に倦んだ人間が田舎の牧歌的な生活に憧れるといったような、19世紀的な、理性的人間が崇高な美や原初的自然に無垢なまでに憧憬の念を抱いたロマン主義的な傾向が含まれていて、それでは子供の目線を見誤ることになる。『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』のように大人の世界と子供の世界が厳然と分かれているということはないはずである(ちなみにこれらの作品では、両世界を分けて描いているにもかかわらず、大人が子供の世界を単純に牧歌的なものとして眺めるのではなく、ある種の理解を伴って「見守っている」ように感じられることが印象的である)。ここで重要なことは、小説でも漫画でもアニメでも何でもよいが、その時々にしか鮮烈に感じられず、十分にその要素を吸収することのできないようなものが確かに存在する、ということである。幼少期の話ではないが、木田元ドストエフスキー太宰治は20歳前後で読んでおかないといけない、森鷗外川端康成は相応に年を重ねないとよく理解できない、というようなことを言っていたが、個人差はあれども、人生のうちでその対象を最もよく理解できる時期というものがあるのだと思う。それは、その小説や絵本なりがいくら事の本質を突いていたとしても、時期を逸すると、そこにある本来の面白さや切実さを感じられないということだ。

 大人の目線でいうと、やはり子供は将来「役に立つ」ことに優先して取り組むべきだと考える傾向にある。しかし、それはあくまで「大人になった自分」がこれまでの人生および現時点での生活を総合的に考えあわせて算出した、「現時点」での自分の評価結果に過ぎないことを忘れてはならない。これまでの人生も、その大人にとっての「現時点」も何もない幼少期の子供に対して、自分にとってだけ正しいように思われる計算結果を適用することは論理的に正しくない。その大人の「現時点」がよりよくあるためにはどうするべきだったかを反省的に思弁しているだけなのだから、これから全く別の人生を歩んでいく子供には何ら関係性がない。もっとも、大人がそこに関係性を見出す、というよりもむしろ作り出すからこそ、子供は大人(親)と同じ道を歩むことが多いのだろうし、結果的に「うまく」いったのであればそれが論理的に誤りだったかどうかなどは決して考えられることがない。逆に、うまくいかなかった場合に限り、その論理的過ちが露呈することになるのだろう(当事者たちがそれに気づくかどうかは別の話だが)。

 また、教育の分野では「一億総評論家」状態で、やたらに多事総論、百家争鳴になるのが常であるが、それは誰もが自分の人生をモデルケースにして、その時点での自分に対する評価に基づいて考えるからではなかろうか。今の自分をいいように捉える者もいれば、悪いように捉える者もいるし、それを過去の自分の人生と照合する―とすれば、モデルケースは当然各人各様になろうし、答えはいくらでも導き出される。様々に議論がなされることは本来良いことだと思っているのだが、単なる主義主張の押し付け合い、あるいは馴れ合いがはびこっている現状を見る限り、事はそう単純ではないらしいことがわかる。

 大人が現時点での自身に対する評価を子供に適用することの論理的過ちについて、それはそれとして、「役に立つ」かどうかの観点で語られがちなのはなぜなのか。

 この場合の「役に立つ」というのは、どちらかというと資本主義社会の中で活躍すること、すなわち合理的に(少なくとも高い水準での合理性を持って)生きることが基本的によいことであるということを含意していないだろうか。子供のことを考慮すると、社会の中でよりよい形で生きてほしいと思うから、このように考えることはあながち間違いではない。しかし、そのように功利主義に偏った思考は、前回述べたとおり、ひとつの原理に依拠した生き方に陥ってしまっている。それは社会を広く見たときに、原理対原理の対立を生む危険性があるし、また、個々人について見た場合でも、ひとつの原理(軸)に依拠した生き方は、一方向に無理が生じたときの方向転換を困難にする。

 先に述べた「好機を捉える」という話と考え合わせて、結論めいたことを述べるとすると、基本的には子供はその時々の関心に従った好きなことをする(大人がそうさせる)のがよいのではなかろうか、そして大人はそういう寛容な姿勢というか、我慢強い姿勢が求められるのではないか。もちろん子供がなんでも好き勝手にやってよいというわけではなく、大人は適切な水先案内人でなければならない。そしてこのあたりの塩梅は非常に難しい。ロックの『教育に関する省察』には、遊び道具をたくさん持っている子供は、たくさん持っていることに慣れてしまい、自分は十分に持っているのだということに思い至らず、常に何か新しいものはないかと求めることになる、とある。特にネット社会ではネット上に常に新しい(そしてそのほとんどがどうでもいい)情報が追加されるので、その傾向はとどまることを知らない。どこで境界を設定するべきなのかという問題はますます難しくなっているのだと思う。

 理想論に傾いているかもしれないが、大人がうまく時宜に適するように導くことで(大人がモノを提供する事が前提なのでその役割も大きい)、子供はその時々で触れる対象の要素をもっともよく吸収し、また多種多様な物事に接することによって、ひとつの方向に縛られることがなく、―後々「役に立つ」という功利主義的側面が全くないというと嘘になるが―自身のうちに複数の「軸」を持たせることができ、いわば「余裕」のある生活を送ることができる(そのような素養を培うことができる)。

 もっとも、このような考えを(大人が)功利主義的にしたのだとすると、「功利主義的観点から非功利主義的に生きること」を選択した(させた)こととなり、それは本末転倒である。ここでのポイントは「非功利主義的に生きる」ことを原理として選択するのではなく、そういった原理の選択を避けた上で、「功利主義的に”のみ”生きない」ということである。

 ここで、「功利主義的に”のみ”生きない」ことは「功利主義的に”のみ”生きない主義」ではないかと反論されるかもしれない。「相対主義」も「絶対主義」の裏返しの「絶対主義」だという理屈に近いかもしれないが、「功利主義的に”のみ”生きない」というのはあくまで自己の姿勢の話であり、たとえば「多文化主義」は場合によっては「排外主義」に転じうるが、それは「多文化主義」と言いつつ、そこに自己の姿勢を超えて、相手の姿勢に異論を唱え、自身の主張を理解させることを潜在的な目標にしているからではないだろうか。あるいは、多文化主義の背後にひとつの原理が潜んでいて、それとは知らずに表向きは多文化主義だと謳っているに過ぎないのか知れない。結局のところ、言葉の問題ではなく自身の姿勢の問題なのではなかろうか(ただし、だからと言って、相手に何も言わないこと、黙することが必ずしも正しいわけではない。「適切な議論」はむしろ望ましいのだろうが、それがいかに難しいかは、先述のとおり論を俟たないだろう)。

 ここまで来るともはや幼少期の話を超えてしまっていて、議論が錯綜しだしているだろうからここまでにしておくが、私の中でも大事なテーマの一つなので、今後もっと突き詰めて考えていきたい。

 

 さて、今回は幼少期において何に取り組むべきかがテーマとなったわけだが、何分若輩者ゆえ理想主義的な部分があることは否めない。このあたりのことを扱ったよい参考書があれば教えていただきたく思う。