oreno_michiyuki

自叙伝を書き記したく始めました(2022年10月~)。自叙伝と知的生産による社会や歴史の弁証法的理解が目標です。コメントも是非お願いします。 ライフワークの「おうちご飯」もどしどし載せます!

自叙伝―序文 その2(No.2)

 自叙伝を書くことに決めたものの、そもそも自叙伝というものをほとんど読んだこともなく、かろうじて本棚に『フランクリン自伝』と『福翁自伝』があるくらいのものなので、いささか悩むのであるが、あくまで我流で好奇心の赴くままに雑文を連ねていきたいと思う。

 自分の人生を振り返ってみたいと長らく思いつつもなかなか手を付けられなかった理由の一つに、「物語る」ことによって喪失してしまうものを恐れていたことがある。「物語る」ということはその時点の自身によって出来事なりを解釈するということにほかならず、かつての自分の感覚・感性が受け取ったものとは確実に異なるものであろうし、その相違にもかかわらず、解釈が先行することによって、当時受け取ったナマの感覚が失われてしまうことにならないだろうか。だとすれば、時々思い出を想起することで事足れりとしておくほうが、きれいな思い出を保存しておくという意味でよいのではなかろうか。

 そんな逡巡がありつつも、昔の思い出に浸るだけの感傷主義では是とできないあたりが、一部分にやたらとこだわる性格がなさしめることであろうし、先に述べた通り、社会での出来事や歴史と自分の人生を結び付けてみたい―それがどういう結果になろうと―という、いわば知的好奇心が勝ったということである。なので、かつてのナマの感覚が失われてしまうことは受け入れる覚悟である。もっとも、現時点で過去の思い出を想起した時点で、それはその当時のナマの感覚ではもはやなく、どうしても現時点の自分の解釈でしかないのであるが―そう考えると出来事の一回性という性質は恐ろしくもあり、また、アウラとでも言うのか、一回性ゆえの美しさもある。昔のほうがよかったというありがちな懐古主義はあくまで現時点での解釈に基づくもの、というよりそれ自体でしかなく、事実がどうだったかは問題になっていないはずだ。恐れずに過去の自分を今の自分が想起し解釈しようと思うわけである。

 前置きが長くなるが、私は30代を目前に控えており、そのことも自叙伝を記したいと思ったひとつのきっかけであるが、そもそも人生を10年単位で区切ることには何の必然性もない。であるにもかかわらず、孔子の時代から絶えずそれが語られてきたということは、それが人類における捨てがたい慣習の一つになっているということであろう。(実際そのことに影響を受けているからこそ今これを書いている)

 必然性はないが、人類にとって限りなく普遍的であるのだから、そこには単なる偶然ではない経験則が隠れているはずである。あえてそれを一つの土台として考察を進めていくのも有益な手だと思う。とはいえ、ここにも落とし穴があって、「自分は30代だから(後には基本的にネガティブな言説が続く)」といったような、周囲の言説―風潮、空気―にただ流されるだけの思考―というよりも惰性―に陥ってしまう傾向を見逃すわけにはいかない。ともすると慰め慰められの馴れ合いに堕しがちな(10年単位の)年齢・年代論は、現時点での自分の在り方やありたい姿、これからの自分を、本来それが望ましいものではなかったはずなのに、一つの型に規定してしまうことになる。「もう40代だから体が痩せにくくなったなあ」という思考は、その科学的事実はともかくとして、実際に痩せようという意欲を自分自身から無意識に削いでいることになるのではないか。それを他人と共有して安心する姿など目も当てられない。飲酒の習慣を改められないのは、今まさに飲酒をしているからだと『幸福論』(アラン)にある。考察の土台としつつも、不用意な言説で怠惰な「思考もどき」をすることのないよう注意したいものである。

 さて、具体的な自叙伝の進め方であるが、生まれてから今現在までつぶさに振り返ることなど何ら意義を感じないし、そもそも覚えてもいない事実を何かしらの記録から引っ張り出してきても、単なる楽しかった―とは限らないが―思い出の羅列になってしまう。そうならないためにも、時代ごとにいくつかトピックを挙げ、それについて論じるという形にしてみたいと思う。もっとも、うまくいかなければ何らかの形で軌道修正すればよいだけであり、それだけの可塑性は持たせておきたい。

 上のアランの話ではないが、軌道修正できるということは人間にとって切実ではなかろうか。ネット社会に漬かりきることの大きな弊害として、自分の好きな空間に「だけ」没入し、他の空間を想像することすらできなくなってしまうことがある。それが結局は激烈な言動や挙句の果てに暴力的行動に至ってしまう。他人の意見に耳を貸すというのは言葉以上に難しく、場合によってはこれまでの自分を否定することにもなりかねない。それであっても、あくまで客観視と比較衡量をつづける忍耐強さを持つことが、ネット社会になってからの時代に限らず、ひとつの普遍的な教養ではないだろうか。

 というわけで、自叙伝をネット上に公開するからには何らかのレスポンスややり取りが発生することが望ましく、もし運よく他者の視線に実際に―誰も閲覧しないのであれば机上でノートブックに記すのと何ら変わりない―さらされたのであれば、その忍耐強さをもって真摯に自身と向き合いたい所存である。