oreno_michiyuki

自叙伝を書き記したく始めました(2022年10月~)。自叙伝と知的生産による社会や歴史の弁証法的理解が目標です。コメントも是非お願いします。 ライフワークの「おうちご飯」もどしどし載せます!

自叙伝―序文 その3(No.3)

 まず自分の来歴を簡単にふりかえってみたい。

 平成5年、大阪市、父親は塾の講師、母親は専業主婦という家庭で生まれた。平成5年というと「失われた10年(今時点では30年)」と言われた不況の真っただ中であるが、当然そんな雰囲気を特に覚えているわけではない。実際のところはどうかはわからないが両親の精いっぱいの努力があったから何も不満を感じなかった(その記憶がない)という部分もあったのであろう。

 2個上に兄、2個下に妹がいたので、遊び相手、喧嘩相手に不足することはなく、同時に、上下に守られて、と言って正しいのか、どちらかと言えば自由奔放に育てられてきた。特に屈折した思いも抱くことなく生活してこられたことは誠に幸運というべきであろう。家庭生活とはおそらく関わりなく、自由さはともすると自分勝手さにも通じていて、やりたくないことはどうしてもやりたくない、という個人主義的な面も強く、今になってもそういった部分を社会生活の所々で感じられ(他人事ではない)、苦笑を禁じ得ないものである。

 幼いころから、母親が「教育ママ」というほどのものでもないのだが、比較的懇切丁寧に勉強についてくれていたこともあって、また、父親が塾講師という職業に就いているからでもあろうが、同年代の中でも成績は多少はよく、小学4,5年生からは中学受験を視野に入れて勉強を本格的に開始した。今も変わらないのかもしれないが、中学受験は「親と子の共同作業」という様相が強く、いろいろと大変な面もあったと思うのだが、これも両親の努力に支えられてそれなりに良い結果に落ち着けることができた。また、2年生からは少年野球も始めていた。小さいころから身体があまり強くなかったそうで、母親が進めたことで、当初は嫌々であったのだが結局6年生まで続けることになった。中学受験と少年野球という二つのライフワークを持っての生活には、細かい点はともかく、充実した毎日を与えてもらっていたことであろう。

 そうして進学したのは大阪府高槻市にある高槻中学校(中高一貫なので高槻高校にもその後進学している)であり、校名からは以外かもしれないが私立なのである。ちなみに高槻というとキリシタン大名で名高い高山右近高槻城があった場所で、大阪府内とはいえ都会ではなく、山や自然も比較的多い郊外といったところである。

 中学生は人生形成において最も重大な時期のうちの一つだと思うが、その時期を男子校で過ごしたことと、野球部に所属しつつも、進学校なので当然なのだが課題も多くこなし(あるいは大いにサボりながら)、総体的に見ておおらかな日常を享受できたことは、幼少期の生活で得られた自身の性格から大きな転換を強いられることもない面ではよかったものと思う。もっとも、自分に大した能力がないにもかかわらず、新自由主義の風潮に乗じて競争中心の生活に足を踏み入れたことは後々自分を苦しめることになるのだが。

 入学当初から大学受験も視野に入れて勉強をするのが進学校の在り方のようで、そのことについては「いつか来るもの」として早い段階から受け入れていたこともあり、中学受験同様できる限りのことはしてきたつもりだが、受け入れていただけで何も実になっていなかったのであろう、現役時代は合格した大学はゼロで、あえなく浪人生活に突入することとなった。

 この浪人生活も曲者というか、大げさに言うと背水の陣の精神生活を強いられることで、―高校3年生まで続けることのできた野球で培われたと言ってはいかにもありがちなのだが―忍耐強さこそ発揮できたものの、これも能力のない人間が無理をしたからか、ネガティブな感情も大いに抱え込んでのものとなった。そんな苦労もしたからか、そして周囲に大いに迷惑をかけつつ、無事第一志望の京都大学法学部に入学することができた。

 「花の大学生」とか「青春」とか、このあたりの年代が形容される様々な言葉はだいたい嫌いなのだが、まったく平穏無事な大学4年間を過ごした。人の道から足を踏み外すのも問題だが、無事なる生活というのもどうなのであろうか。後述を待つことにしよう。

 卒業後は神戸の企業で法務パーソンとして仕事をし、少し前に、これまでの自分からはにわかに信じがたいのだが、幸いなことに結婚をして今に至っている。(結婚して幸せになるのではなく、結婚できたことが幸いなことなのである。結婚に関することをいつも未来形で語るのはあらゆる男女の悪い癖である。過去からの幸福や幸運の連続であることを認識すれば、何をか悲嘆にくれることがあらんや。新婚の盲目と退けたくばそれでもよいが)

 生まれてからずっと関西での生活だが、そこまで関西風の人間ではないと自分では思っている。お好み焼きもついこの間まで嫌いであったし、粉モンと米を一緒に食べることなどできない。食生活も日常の重要な一つの軸なので、真剣に考えてみるのも面白いかもしれない。

 さて、ざっと来歴を振り返ってみた。こうしてまとめてみると、あの時は「よかった」「わるかった」など簡単な言葉で一括りできてしまうし、そうしてしまいがちだが、そういう飲み屋トークにはすっかり辟易している。今段階では評価・解釈はこのあたりでとどめておこう。